御書発刊の真相
創価学会は、昭和27年に『御書』の出版を歴史上の大功績と自慢する。
そもそも、御書の編さんには日亨上人により実現したものであるが、現在の学会の歴史からは、そのご尽力は省かれ戸田会長の手によるものであると表現されている。
御書発刊の前年から、戸田会長の事業である東京建設信用組合は解散し、多難な時をむかえており、学会の運営資金に窮していたと思われる。その直後、学会は資金調達のためか、聖教新聞の発行、財務部結成、『折伏教典』を刊行するに至る。
そういった時期に、御書の編さんが進められてきたのである。
以下の引用は、検証が必要ではあるが参考までに掲載しておこう。
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七月二十二日、本尊奉戴の臨時総会が市ヶ谷の家政学院の講堂で開かれ、その席で財務部の強化と、日蓮の遺文集の刊行が発表された。
創価学会は会員から会費をとらず(ことあるごとに臨時徴収する)、戸田や会員による寄金で運営されていたが、それは制度的に明確でなく、会経費は不足しがちであった。そのため、全国折伏をめざす今、まず資金制度を確立する必要があった。
『日蓮大聖人御書全集』(『御書』と略される) の刊行も、教学面の強化と同時に金儲けをもくろむ企画だった。
同書の編纂は、日蓮正宗の長老である堀日亨に依頼され、校正は創価学会講義部の講師以上二十名によって行われ、翌二十七年四月、B6判、千七百ページ、一巻となって完成した。当初、戸田は六百万円と見積られた出版費の援助を大石寺に請うたが、拒絶されて怒り、聖教新聞に本山をたたかせたりした。が、結局、出版費は会員からの一冊千二百円の前金でまかなわれた。
『御書』はそのころ戸田の眼についた唯一の稼ぎの種であり、また前金以外に金繰りもつかず、戸田はあせっていた。「御書は作ると決めたら作っちまうんだ。借金しても千二百円用意しろ」と当時の『聖教新聞』( 昭和二十六年八月一日) は記している。
同書は初版六千部が発行され、二年後に四万部が再版された。そのとき戸田は、定価二千円の同書を千二百円で予約買い取りしておけば、あとで本部が二千円で買い戻す、多く買えばそれだけ儲かると、会員に大量購入をすすめたという( 日隈『戸田城聖』)。
(『池田大作権力者の構造』講談社)