昭和34年
- 1959.1.27
- 創価学会 東洋学術研究所(東洋哲学研究所)設立
- 1959.5.3
- 国立戒壇と選挙
「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべきどうしても通らなければならないのが創価学会の選挙なのでございます」聖教新聞
- 1959.6.30
- 池田体制の発足
六月三十日、選挙結果をもとに、組織機構が大きく変えられた。まず池田、北条浩、森田一哉、龍年光の四名が青年部参謀室を離れて理事に就任し、理事は計十一名となった。(『池田大作権力者の構造』組織図➡)
- 1959.7
- 『大白蓮華』7月号での戸田会長指導
「ただ、御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラ書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。」
- 1959.7.3
- 男子部幹部会 池田総務「第三文明」を提起
「学会は資本主義でもなければ---資本主義でないということはないが---自民党思想でもなく社会党思想でもない。いま必要なのは第三文明です。… … 精神文明の世の中も、また物質文明の世の中ももの足らぬ。どうしても全民衆の根底からの欲求というものは、物でもなく、心でもない。… … 色心不二の哲学が必要な時代である。最高の文化が広宣流布であると会長先生が仰せになったこともあります。最高の文化とは何か、第三文明です。これがこの文明なんです。カビの生えたような、偏頗な文明ではないのです、ゆえに、思想的にいっても、共産思想、自民党みたいな片よった思想ではない。いまだかつてない、全人類が根底から要求しているところの″新社会主義″ こそ、王仏冥合の思想であると、わたくしは信ずるんでございます… … 」(『聖教新聞』34年7月10日)
- 1959.8.30
- 日達師 「日蓮本仏論」刊
- 1959.10.15
- 『全日本学生弁論大会』(学生部主催)
- 1959.10.23
- 「三、四年前立正佼成会の庭野日敬が国会に召喚されていろいろ調べられた事がある。この時会長(戸田城聖)はニッコリ笑って「こっちへくればちょうどいいな、この時こそ立正安国論を叫びたい」と、申しておられました。大事な時に叫ぶことこそ、私は本当の雄弁ではないか・・・」池田総務発言
- 1959.11.16
- 日淳上人 日達上人に相承
- 1959.11.17
- 日淳上人御遷化
- 1959.11.21
- 柿沼広澄師 総監就任
- 1959.12.1
- 日達上人 管長就任
- 1959.12.2
- 日蓮正宗第六十六世日達猊下登座
- 1959.12.25
- 千葉県君津郡顕徳寺において同寺本堂復興帰一入仏式並びに同郡本乗寺・本顕寺・安房郡遠本寺帰一入仏式
昭和35年
- 1960.1.1
- 「池田総務は『日本をみれば自民党、社会党、創価学会の三国志なんだ。共産党なんか問題でない。世界もまた三国志である。 』と、おっしやっている」(『聖教新聞』35年1月1日)
- 1960.4.1
- 池田氏発言 「戸田先生は仏さまであられます」 大石寺大化城建立
- 1960.4.17
- 東京法道会 「法道院」と改称
- 1960.4.22
- 池田総務の第三代会長決定が発表
「四月九日に緊急理事会が開かれて、小泉理事長から理事全員に対して正式に会長推戴の件がはかられ、全員一致して池田総務にお願いすることに決定した。
翌十一日 に、理事室を代表して小泉理事長と原島理事から、総務に会長就任をお願いしたところ、池田総務は『事が重大ですから、一日、二日猶予願いたい』とのご意向であった。翌十二日、池田総務から原島理事に、堅く辞退する旨の回答があった」(同日 聖教新聞)
- 1960.5.3
- 第三代創価学会会長に池田氏(32歳)就任
「我が創価学会は、日蓮正宗の信徒の団体であります。したがって、私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下に御奉公申し上げることが学会の根本精神であると信じます」 - 1960.5.4
- 池田会長 原島嵩(当時男子部班長)に語る
「君は私の弟子になるか、弟子というものは、師匠が地獄の相で死んでいったとしても、疑わずに、自分も共に地獄へ行くというのが弟子だ。その決意が君にあるか。」 - 1960.5.5
- 会長就任をめぐって脱会
池田の就任二日後の三十五年五月五日、元男子部第一部隊の隊長で、蒲田支部幹事の佐倉雅章、大野兼弘は、創価学会員三十人ほどを引き抜いて会を割って出、顕徳会という分派を結席した。佐倉は三十二年の大阪参院補選で、二ヶ月の未決入りするまで創価学会に尽して、前述のように除名され、その後、復帰を許された会員の一人だったが、池田の会長の就任にまつわる全てを、「きたない」として創価学会を見限ったのだという。池田は佐倉宅に辻武寿、牛田寛、鈴木一弘、龍年光を向けて、彼をおどしたり、すかしたりしたが、五月十一日に除名し、また日蓮正宗妙真寺にも意を通じて彼らを破門させ、運動を圧殺した。(『週刊コウロン』35年7月19日号 『池田大作権力者の構造』) - 1960.5.6
- 創価学会会長と日蓮正宗の関係
「『正法を説ける覚徳比丘あり、その比丘を守る有徳王あり、この有徳王は邪宗教と戦闘して、全身に芥子ばかりも残らぬほどの傷を受け、最後まで戦いきった』という経文があります。いま創価学会の私どもは、日夜、朝な夕な、不幸の人々を救おうと折伏に励み、また教学に、座談会に、支部結成に、総本山を、日達猊下をお守り申し上げているその精神、その姿、その方程式こそ、有徳王の精神であり、姿であると私は信ずるのであります」(『聖教新聞』36年5月6日) - 1960.5.13
- 聖教 年齢捏造掲載
「戸田先生が、初代牧口先生に師事されたのが十九歳のおんとき、また、第三代会長池田先生が戸田先生の問下生になられたときも十九歳のおんときと聞く。まことに、仏法の不思議!」(『聖教新聞』35年5月13日)【資料】➡ - 1960.6
- 捏造『エレベーター相承』
『大白蓮華』昭和35年6月号で池田氏は講堂のエレベーターの中で次期会長を託されたと捏造。
昭和36年5月 大白蓮華
「昭和三十三年三月一日、大講堂落成式の日、五階から、一階に降りるエレベーターの中で、
『わしの、いっさいの仕事は、これで終わったよ。あとは、おれと、お前だ。お前が、あとはしっかりするんだぞ』と。【資料】➡しかし、
人間革命 第十二巻 (1993年4月7日 第六刷)では
清原かつ、森川一正もやって来て、戸田を囲むようにしてエレベーターに向かった。
エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。そして、静かだが、力をこめて言った。
「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ!」エレベーターの上昇・下降が違い、さらに二人の幹部が同乗しているのだが、その二人はその事実を後年になって語っていない。
- 1960.6.4
- 「安保改定よりも、それよりか、もっと本質的に大事なことは、邪宗改定である」(『聖教新聞』35年6月4日)
- 1960.6.10
- 池田会長 衆院選不出馬発言
「創価学会は衆院選には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから」 - 1960.8.21
- 富士宮市忠正寺 日蓮宗より帰一
- 1960.8.29
- 日達猊下 千葉県松戸市小金普化宗一月寺を改宗される(大日蓮176)
- 1960.9
- 渉外部を渉外局に格上げ連絡局を設ける
表向きの目的は「全国で交通事故や災害に遭ったり、病気にかかった会員の情報をそれぞれの地方組織から受け、お見舞いや名誉会長の激励をどうするか調整の機能を果たす部署」とされている。実際は、末端学会員の情報を一手に掌握、管理。不都合な事件などをマスコミに出ないよう根回し、弁護士、地元公明議員の手配、処理をする部署。局長として長く任務していたのは館岡倉市、その後、竹入義勝氏の弟・央迪が担当。 - 1960.10.2
- 池田会長ら初の海外訪問(24日間)
ホノルル、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなど訪問。 同行幹部は北条、柏原、石田、小平、秋谷 学会機関紙「THE SOKAGAKKAI」発刊 - 1960.10.27
- 御供養を学会では使わない
「御供養の金銭につきましては、ただの一銭なりとも創価学会では使用いたしません。ぜんぶ総本山にいっさい御奉公、御供養申し上げるようになっておりますから、かさねてその点はご報告しておきます。」(第18回本部幹部会 1960.10.27 ) - 1960.10.31
- 「アメリカ総支部」結成 総支部長に北条、総支部婦人部長に柏原ヤス
- 1960.11.7
- 選挙違反を説明
「先日、選挙違反のことについて、新聞ならびにラジオ等で報道され、たいへん皆さん方に、私の罪業深きゆえに、ご迷惑、ご心配をかけましたことを深くおわび申し上げます。」第19回本部幹部会 - 1960.11.13
- 一月寺改宗入仏式
- 1960.12.13
- 富士宮市蓮光坊・心教坊・法善寺・忠正寺帰一入仏式
- 1960.12.14
- 蒲田四支部結成大会
「昭和32年の大阪の参議院議員の補欠選挙の時に、蒲田方面の何人かの人が買収事件を起こしました・・・・学会の方針、学会の指導に反してやることはいけませんが、大きい変毒為薬はできます。(中略)あくまで広布流布のために自分はやったのだという、真心があるならば、私は、何らそれは恥ではないし、大御本尊様は大きいし、また自分自身の大きい罪を消していける、信心の上からみれば変毒為薬でもあるし、喜ばしいことであると思うのでございます」 池田会長指導
昭和36年
- 1961.1.28
- 初のアジア六カ国・地域訪問(日達上人、池田会長ら) ~2/14まで
香港でアジア初の地区発足 - 1961.3.27
- 会員世帯数185万世帯に
- 1961.4
- 藤原行正氏 初代渉外局長就任。
数年間、池田会長の側近ナンバー1として辣腕を振るう。 - 1961.4.23
- 松江支部結成大会
「私どもは、大御本尊様に南無することによって、簡単に元品の法性、すなわち仏の命を湧現していくことができるのです。」
- 1961.5.3
- 「文化部」を「文化局」に格上げ。
局内に政治部」を設置(公明党のルーツ)
大石寺版「真訓両読妙法蓮華経並開結」刊
- 1961.5.10-6.24
- 柿沼総監ら一行東南アジア宗教事情視察
- 1961.5
- ジョージ・ウィリアムス米国副総支部長帰国。アメリカの会員は1500世帯と本部幹部会で報告
- 1961.5.19
- 「言論部」を設置
- 1961.5
- ジョージ・ウィリアムス米国副総支部長帰国。アメリカの会員は1500世帯と本部幹部会で報告
- 1961.5.19
- 「言論部」を設置
- 1961.6.1
- 衆院不出馬発言
「王仏冥合の実践の関所ともいうべき選挙戦は日蓮大聖人の至上命令である。乃至、われわれは政党ではない、ゆえに、けっして、衆議院にその駒を進めるものではない。衆議院ならびに地方議会等、その本質にかんがみて、政党色があってはならない分野に、人材を送るものである」『大白蓮華』6月号 巻頭言 【資料】➡ - 1961.6.11
- 不滅の十万結集 女子部総会
「大御本尊様に『行』を積む、勤行しなければ功徳をいただけないことは道理です。したがって、皆さん方は、朝晩の勤行をこの一年間、とくにしっかりと実践していただきたいと、私は要請します。」 - 1961.6.26
- 松本日仁師 監正会長に就任(のちに擯斥処分)
- 1961.6.27
- 全国6方面に総合ブロック制設置
- 1961.7.4
- 不滅の十万結集 男子部幹部会
- 1961.7.21
- 大客殿建立御供養で32億円余りが集まる。
- 1961.7.28
- 創価学会顧問制度
法華講連合会会長(当時、初代委員長)の平沢益吉、三菱銀行員の戸田喬久(戸田会長子息)、塚本素山が就任する。 「学会池田先生のご指導のもと、皆様と手をたずさえて、世界広布の大道にまい進する覚悟・・・」 平沢益吉 - 1961.9.1
- 日顕師 教学部長に就任
- 1961.10.2
- 男子部幹部会
「恩師戸田先生も『学会っ子は大好きだ。学会育ちは、ほんとうに自分は大事にしたい』このように講演集にも述べられております。『学会っ子に財産を譲ってあげよう』また『青年部に跡を継がせていこう』このように、つねづね申されておりました、そのご精神どおり、私もあくまでも、学会っ子にぜんぶ譲ります。また、青年部出身者が代々の会長を継いでいくということを、重ねてこの席上を借りて申し述べておくしだいであります。」 - 1961.10.4
- ヨーロッパ九カ国訪問 ~10/23まで
- 1961.10.27
- 第18回本部幹部会
御供養は一銭も学会では使わない
「御供養の金銭につきましては、ただの一銭なりとも創価学会では使用いたしません。ぜんぶ総本山にいっさい御奉公、御供養申し上げるようになっておりますから、かさねてその点はご報告しておきます。」 (「会長講演集第五巻」) - 1961.11.5
- 国士十万を達成(国立競技場)
「願わくは、おのおのの境遇にあって、大御本尊様をしっかりだきじめ、大勝利者になっていただきたいことを、まず念願し、ともに広宣流布のため、日蓮正宗のため、全民衆の幸福のために、私は、ただただ、諸君の成長と健闘だけを祈っていることを、ここに声を大にして叫ぶものであります。」 - 1961.11.7
- 「政治部」解消し公明政治連盟に
- NSAメンバー68人が本山に初登山。35人が御授戒を受ける。 英ロンドンで「第一回の座談会」
- 1961.11.26
- 初の教学部教学試験(聖教新聞社)
昭和37年
- 1962.1.7
- 公明党の前身、公明政治連盟が発足
委員長に原島宏治、副委員長に北条浩、書記長に龍年光
- 1962.1.19
- 宣伝する教団は教祖の金儲けのため
「よく話に聞きますが、ばく大な金をかけて、新興宗教や、その他の教団が、ラジオで宣伝したり、雑誌で宣伝したり、大勢の人をだまして、そして教団の勢力をつくっている事実があります。それは、教祖自身の金もうけのためであることはとうぜんであります。私どもは仏さまのいうとおりの実践です。インチキは、ウソは、最後は滅びていきます。正しいものが、最後は勝つのが因果の理法です。」女子部幹部会 - 1962.1.25
- 1962.1.27
- 大阪事件に勝利の判決報道(聖教新聞)
⇒小泉理事長、池田参謀室長は無罪判を決勝ち取ったが、他の会員、二十人に対しては戸別訪問で罰金一万円から三千円、うち十人に公民権停止三年、七人に同二年の判決がいい渡されている。(池田大作権力者の構造)
東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)発足 - 1962.1.29
- 中東六カ国訪問 ~2/12まで
- 1962.2.20
- 池田御授戒秘話
「(小平教学部長と矢島尊師に連れられて御授戒に行き・・・)それで、日淳上人より御本尊様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)ともったいない話ではございますが、その時は"信心はけっこうでございますから、きょうは御本尊様はいただかないようにします"とそういうように申し上げたのです。その場で。すると日淳上人は『まあ、そういわないで、きょうは御本尊様をもっていきなさい』と(笑い)。何回も何回も押し問答になりまして、とうとう日淳上人様は、ひじょうにがん固な方であって、私は負けまして(笑い)そして、ちょうだいして今日にいたったわけであります」 聖教新聞 - 1962.3.3
- 池田会長 法華講大講頭就任
- 1962.4.15
- われわれの同志がなくなったときに、「香典を持っていってしまう」という悪口があります。大御本尊様を根本として追善供養し、ていちょうにも、私どもが、その同志をお送りし、真心こめて私どもが香典をさしあげる場合こそありますけれども、その香典を、学会本部が持っていくなどということは、ただの一度もありません。(北海道支部幹部会)
- 1962.4.24
- 東京杉並区中野教会 昭倫寺と寺号公称
- 1962.4
- 「いまだに、いろいろな戒律を守っている宗教がありますが、その教えがいかに低級であるかを物語っています。また、受戒の儀式もないような新興宗教は、宗教の名に値しないといえます」 『大白蓮華』
- 1962.6.9
- 会長が代表してご供養する
「日蓮正宗創価学会においては日蓮正宗を守っていくことは私どもの役目です。乃至、創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うような事はありません」 「日蓮正宗総本山に、日達上人猊下に対し奉るいっさいのご奉公、御供養に対しては、皆さんを代表して、創価学会の会長が全員を代表して、いっさいご奉公申し上げますから、安心していただきたいと思うのであります。」新池御書講義で 中部本部地区部長会 - 1962.6.16
- (「創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養願うようなことはいたしません」)
↓ ↓
後年、池田氏は次のように金集めを幹部に指導
「地区部長は最低十万円は出すこと。現在持っている貯金をすべて出すのは当然であり、さらにいくら上乗せするかが信心だ。各支部では十万円以上出す人を三十人以上つくること。一口、二口しか出さない人は信心がない証拠だ。支部内で百万円以上の大口を何人出すかが、支部長・婦人部長の戦いだ。個人指導・家庭指導で三口以下の財務部員がなくなるよう指導すること」 - 戸田会長の財務に対する遺訓
「日蓮正宗を信仰した結果、ご本尊の功徳で福運を得て、生活が豊かになった信者は、学会運営のためにその一部を学会へ寄付しなさい」 - 1962.6.23
- 我が身が本尊は観念論
「戸田先生は、空仮中の三諦にお説きあそばされています。宇宙それ自体も本尊であるそれは空諦の本尊、わが身は仮諦の本尊である、大御本尊様は中道法相の本尊であられる、このようにも申されておりました。 したがって、わが身が本尊といおうが、宇宙それ自体が本尊といおうが、それはまだ観念論です。日蓮大聖人様の図顕あそばされた、中道法相の大御本尊様に関係を結ばなければ、冥合しなければ、宇宙の本尊の実体も感じられないし、わが仮諦の本尊の事実の確信もできないわけです。 そこに一大事の因縁としての、日蓮大聖人様の大御本尊様、ご図顕の不思議、それからまたありがさがあるわけなのです。」(『会長講演集』第七巻 九州本部幹部会 法華初心成仏抄講義 ) - 1962.6.26
- 「大御本尊に御供養するということは、日蓮正宗の聖僧に御供養するということは、永遠に人々を救う大仏法と、大仏法を守ってくださる人への供養です。ですから、功徳を受けるのはとうぜんではないですか。」東京第二本部幹部会 御義口伝講義
- 1962.7.5
- 政界に進出するのは当然
「宗教団体が政界に進出することはとうぜんであり、いわんや、仏法のうえで、日蓮大聖人様のご遺命のままに、堂々と政界に進出するのが、わが創価学会の戦いなのであります。」女子部幹部会 - 1962.7.31
- 法華講全国連合結成大会(大石寺において)
日達上人御指南
本日は、全国法華講の結成大会に当たりまして六千の法華講員が集合致し、ここに大会をせらるることは、誠にこの上もない喜びと存じます。 わが宗が、宗祖大聖人宗旨建立から正法をまもってきたにもかかわらず、この七百年来、本宗は実に勢力微々たるものでありました。徳川時代の末の、今から百二、三十年前におきましても、わずかその時分の大石寺の法華講員は奥州地方法華講衆また福島地方の法華講衆、江戸地方、それからこの駿河地方それから金沢、それから浪速、それだけが中心の法華講衆でありました。それは、またいかに世間に邪法が満ちておったかといぅことでございます。 それぞれの地方において、それぞれの法華講衆は、それぞれの折伏をしておったのでございますが、徳川時代の政策により、あらゆる圧迫により改宗ということができず、あるいは内得信仰あるいは一代信心といぅよぅなことにおいて、わずかに信心はせられておったけれども、なかなか発展してこなかったのであります。 それが明治維新になって、信教の自由によって、あの名古屋地方が盛んになり、あるいは九州地方において、あるいは信州において、それぞれ正宗の信徒がふえていったのでございます。 - 1962.8.31
- 学生部の代表に「御義口伝」講義を開始
実際に下調べ、解説を行ったのは原島嵩氏を始めとした教学部。池田氏は本編の解説が終わった後、自身の野心を語ることに終始。 - この頃、右翼の大物・児玉誉士夫が学会にクレームをつける。 学会員・塚本素山を通し、児玉氏のとりまきの親分衆と北条、藤原が会う。 池田会長は後年、この恩を塚本氏に返すため、正本堂建築の際の鉄材を塚本総業へ発注する
- 1962.8
- 西ドイツで「第一回欧州総会」
フランス人8、イギリス人2、スウェーデン人2、スイス人6、ドイツ人28 - 1962.8.31
- 池田会長 学生部代表に御義口伝を講義開始
- 1962.9.4
- 本部起工式
「 」 - 1962.9.10
- 学会 題目を商標登録申請
「南無妙法蓮華経」を商標登録として池田大作宗教法人創価学会会長が出願。昭和47年にも再び登録願い提出。 【資料】➡ 聖教新聞での説明➡ - 1962.9.16
- 公政連 第一回大会 池田会長発言
「もし十年さき、二十年さき、・・・大政治団体になり、皆さん方が一流の名士になって、派閥やそれから反目があるようなことが、もし毛すじでもあったならば、即座にわが政治連盟は大衆の政治団体ではない、そういう資格はないものとして、解散を私はすべきであるということを、本日第一回の大会において、いい残しておきたいのであります」(『公明新聞』37年9月16日) - 1962.10.6
- 関西第一回音楽祭
池田会長指導
「きょうはひじょうに楽しい一夜でありましたゆえに、ここまで青年部を育て上げた、その先頭をきってきた田代君のことについて提案するわけでありますが、この次の三年先の大阪地方区の参議院議員の選挙には、田代君を推薦したならばどうかと思うのです。」(「会長講演集」第八巻)
国会議員となった田代は後年、多額の賄賂を受け取り議員辞職に - 1962.10.14
- 青年部 第一回文化祭(共立講堂)
昭和38年
- 1963.1.8
- 欧米・中東・アジア七カ国訪問 ~27まで
- 1963.2
- 『大白蓮華』2月号
問 地涌の菩薩が摂受を行ずると折伏を行ずることについて論ぜよ。
答 大聖人は700年前に御出現になり法体の広布流布をなさった。この時は正像2000間には、もちろん未曾有の大折伏であり、それにともなう大難もあったのであるが、しかし法体の広布流布は、いまだに、現在会長池田先生の下に創価学会が化儀の広布に向かって、あらゆる分野で、折伏教化、または選挙戦における権力と戦っていることに対すれば、摂受になるということである」 - 1963.3.16-30
- 海外初出張御授戒
ハワイ、ロサンゼルス、シアトルほか - 1963.3.30
- 高尾墓園開き
墓地などはぜんぶ、日蓮正宗で無料でやってもらいたいのです。しかし、日蓮正宗はご存知のとおり貧乏です。ぜんぶ創価学会を代表して、私は御法主上人猊下に、日蓮正宗に御供養申し上げております。創価学会としては、そういう墓地の問題になどは絶対に手をつけません。ぜんぶお寺の問題であります。(会長講演集第9巻) - 1963.4.17
- 都議選で17名当選
- 1963.5.19
- 法華講東京地区連合会第1回大会(台東体育館)
- 1963.5.22
- 法華講全国連合会組織許可 平沢益吉氏が会長となる
- 1963.5.24
- アメリカで海外初の法人許可
- 1963.7
- 藤原弘達氏宅に学会員から抗議が殺到
『文芸春秋』誌での座談会記事に対し、藤原氏へ抗議の手紙、電話が殺到 - 1963.7.6
- 水滸会第8回野外訓練(伊豆・天城荘)
- 1963.7.15
- 宗門 第二回訓諭発令
聖教新聞社説
「法華講に対するお言葉によれば創価学会に協力していくとのことであって全国連合会の結成以来、着々と団結の実を上げてこられた法華講の前途を心から喜ぶものである」 - 1963.7.27
- 会員世帯数360万世帯に
- 1963.7.28
- 言論部第一回全国大会
「私どもの執念深い、そして忍耐強い、正しい、大衆の代表として、大衆の世論としての、情熱ある言論戦を展開して、悪い彼らが、今までは思い上がり、独断的であり、利己主義である彼らを恐れさせて、身震いさせて、本当に正しい言論戦怖い、どうしようもない、というところまで、追って追っておいまくっていこうではありませんか。」『今はじめて語る“あの頃”の真実史』山崎正友・原島嵩 - 1963.8
- 戸田の講義を受けていた秋谷
「(秋谷は八時半から) 九時までの三十分、かならず博学の戸田会長から雑談ふうの講義をきいた。池田現会長も仲間であった」(『文芸朝日』昭和38年8月号/「池田大作権力者の構造」) - 1963.8.3
- 名聞名利について指導
「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。(中略)私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、名前もいらない、有名でなくてもよい、大臣もいらない、また権力もいらない」聖教新聞
シカゴで第一回「全米総会」開催。参加者1500人 - 1963.9.1
- 学会新本部落成式
- 1963.9.5
- 法華講九州地区連合会第1回総会(福岡中村学園)
- 1963.9.15
- 池田 学生部に「百六箇抄」講義
昭和39年(1964年)8月29日まで - 1963.10.1
- 「登山について」 池田会長
「かかる絶対の大御本尊にお目にかかる登山会であれば、学会の登山会こそ、行事の中の最人の行事として、他の一切の行事に優先して行なわれているのである。」
「登出会は、日蓮大聖人様のまします霊鷲山への参詣であり、さらに、日興上人・日目上人等、三世諸仏の住処であり、われらが真如の都である、久遠元初の故郷へ還ることなのである。
このように、学会の登山会は、極めてその意義が深いのであるから、軽々しく考えてはならない。あたかも、大聖人様ご在世当時の阿仏房の精神をもって、登山の精神とすべきである。
阿仏房の精神こそ、たとえ時代は隔つともわが学会の登山精神でなければならないと思う」(大白蓮華 昭和38年10月号 池田会長) - 1963.10.18
- 民主音楽協会発足
- 1963.10.20
- 池田、学生部部長を対象に「御義口伝」講義
- 1963.10.27
- 法華講中部地区連合会第1回総会(名古屋市日生ビル)
- 1963.10.30
- クーデンホーフ=カレルギーと会見
カレルギー 「私は、いままで平和賞、文化賞という賞を沢山もらってきましたが、もしあなたが私の年になりましたら、あなたももらえるようになるほどの功績はあるでしょう。」
池田 「私はそんなものは少しももらいたくはありません。欲しいと思ったこともありません。一生の間に、名誉も肩書も欲しくありません。こんな人間がこの世にいてもいいではありませんか。私はそういう人間になりたいのです。」 - 1963.11.13
- 第一回芸術祭「音楽と躍動のプリズム」
- 1963.11.24
- 法華講全国連合会第1回総会(大石寺)
- 1963.12
- 学会学生部に「法学研究会」発足
- 1963.12.11
- 男子部部隊長会
「私はおこがましく、自分が師匠であり、諸君が弟子であるということは一返もいいません。あくまで根本は御本尊様が師匠であり、いっさい私どもは弟子であります」 - 1963.12.15
- 第12回男子部総会(男子部員100万名達成)
「学会員の皆さまは折伏の上の折伏、すなわち、別して折伏を行じ、われわれ僧侶は折伏の上の摂受、すなわち、別して摂受を行じておるということになるのでございます。」
昭和39年
- 1964.1
- この頃、韓国政府により創価学会の布教活動を禁止する行政処分が下る。(80年代になって解除)
- 1964.2
- ブラジル日蓮正宗として認定受ける
- 「戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成して」大白蓮華2月号 秋谷栄之助
- 1964.2.26
- アジア民族協会発足
第三文明建設の先生の御構想の一つとして、この度、アジア民族協会が生れた。すでに設立されている、東洋学術研究所、アジア文化研究所とともに、王仏冥合の実践活動の一翼を担う使命をもつものであることはいうまでもない。 本協会の性格は、東洋学術研究所の純粋に学問的な研究機関と異なり、アジア文化研究所のように、前者よりやや巾は広いが、アジアを主な対象とした学問芸術の分野における研究機関とも異って、もつと巾の広い文化活動の中から、アジア諸民族との直接の交流をはかっていこうという目的をもつものなのである。 二月二十六日、会長池田先生御出席のもとに発会式が行なわれた。全員三十名、先生から力強く暖かい激励をいただいて、心新たに、第三文明建設の大使命の自覚のもとに、勇握、前進を誓い合った。(前進 No.47) - 1964.3.2
- 大乗寺(四国)宗門から離脱
- 1964.4.1
- 総本山 大客殿落成慶讃大法要
池田会長 法華講総講頭に就任
戸田会長七回忌の後『戸田会長時代、またそれを継承した七年間は迹門である。これからの私の時代が本門である』池田発言 - 1964.4.2
- 戸田会長の七回忌法要(大客殿)
- 1964.4.2
- 「人間革命」執筆は他に2名の協力者
「私ひとりではできませんもので、同じく戸田門下生を代表して、『二名の人に手伝ってもらう予定であります』(『聖教新聞』昭和39年4月4日 池田発言) - 1964.5.3
- 衆議院出馬を表明
「公明政治連盟を一歩前進させたい。すなわち、公明政治連盟をば、皆様方の賛成があるならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするもよし、衆議員に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでしょうか。(中略)恩師戸田先生も、時きたらば衆議院へ出よ、とのご遺訓があったのです」 ➡戸田の遺言は池田氏の虚言
三十億円の正本堂御供養を呼びかけ
「来年の十月までに三十億円の御供養をば、皆さん方のご協力を得て行ないたい。大変であると思いますが、一世帯七百円の御供養を基準といたしたい。来年十月までは、約十五ヵ月間でございます。従って一世帯で1ヵ月に五十円ずつ、なんらかの方法で節約し、貯金していただければ、七百円になるわけでございます。皆さまがた、どうでありましょうか。(大拍手)。それでは満場一致でそう決定といたします」(昭和39年5月3日 第27回本部総会)(月報「創価学会問題」33 内藤国夫)
- 1964.5.12
- オーストラリア・セイロン・インド訪問 ~5/24まで
- 1964.5.13
- 蓮華寺(大阪)宗門から離脱
- 1964.6.7
- 高等部発会式(都内本部単位)
- 1964.6.30
- 学生部第七回総会(台東体育館)
「宗教においても、その終着点が必要。戸田先生は「本尊流布が、信心がトウフである。戒壇建立はオカラである。カスの様なものだ」この様に何度もおおせになっていました。その本質を皆さん方もよく知っていただきたいと思います。戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない・・・ひとつの石碑みたいなしるしとして置くのが戒壇建立にすぎません・・・」 - 1964.8
- 「御本尊様は日蓮大聖人の生身と拝することです。その信心でなければなりません(中略)御本尊を"物"と扱うようになった場合は罰を受けます。学会精神に反します。信心ではありません」 『大白蓮華』8月号での池田会長発言
↓ ↓
「宗祖日蓮大聖人がこの御本尊も、ただ信心の二字におさまれりと言われたのであります。信心の二字の中にしか本尊はないんです。本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人の御書だ。」平成5年9月7日・本部幹部会 - 1964.8.2
- 法華講東海地区連合会第1回大会(清水 妙盛寺)
アメリカの聖教新聞「ワールド・トリビューン」紙創刊 (80年代には10万部をこえたが、近年はその半分に減少) - 1964.8.19
- 大客殿落成慶祝登山 1千余名参加
- 1964.9.15
- 千葉県稲丘に千葉会館建設
学会が作製した!?板御本尊が会員に目撃される。 - 1964.10.2
- 東南アジア、中東、ヨーロッパなど10カ国訪問 ~10/19まで
- 1964.11.3
- 関西文化祭(甲子園球場)
- 1964.11.8
- 東京文化祭(国立競技場)
- 1964.11.17
- 公明党結成大会(日大講堂)
「仏教哲学大辞典」第一巻完成 - 1964.12.9
- 原島宏治理事長(56)死去
死去に際し池田会長はこのようにコメントしたという
そのとき池田は、熱海の温泉でお気に入りの女にサービスさせていた。原島の死を聞いて側近に、「俺が来いといったときに、すぐ来れば助かったのだ」といった。原島は数日前に池田から熱海に来いといわれていたが、学会本部の事務が多忙で行くのがおくれて、今日行こうという日の朝、急死したのである。(『有徳王』)
昭和40年
- 1965.1.1
- 小説『人間革命』が聖教新聞紙上で連載開始
実際の執筆は戸田門下生で作家志望だった明治生まれの篠原善太郎氏。後年、彼の死により連載が途絶える。残りの原稿探しに池田氏は大慌てする。その内容について側近幹部たちが事実と違うこと口にすると、池田会長は「フィクションだから」言い訳をする。
- 1965.1.15
- 中等部結成(地方本部単位)
- 1965.1.24
- 第57回本部幹部会
正本堂御供養を10月9日から4日間にわたって行うことを発表。 - 1965.2.16
- 第1回正本堂建設委員会(大石寺)
- 1965.2.18
- 宗務院 崎尾正道を法規違反により擯斥処分
- 1965.3.8
- 妙信講
法主上人に登山嘆願書送付→7月31日 宗務院より3/8の嘆願書の返事。拒否。 - 1965.3.26
- 正本堂建立御供養趣意書
「戒壇の大御本尊様が、いよいよ、奉安殿よりお出ましになって、正本堂に御安置されることを、正式におおせくだされたのであります。かねてより、正本堂建立は実質的な戒壇建立であり、広布流布の達成であるとうけたまわっていた事が、ここにあきらかになったのであります」 - 1965.4.20
- 「私も二百万遍、三百万遍の題目をあげてあげて、あげぬいて、少しずつ御本尊のお力、大聖人様の仏法の片りんがわかってきたていどであります」 池田発言
➡池田氏のさぼり勤行は学会本部が月刊ペン裁判で証明している。 - 1965.6.4
- 「私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合していなければ、異体同心とはいえない」『前進』6月号
➡池田氏が本仏とする謗法発言 - 1965.7.4
- 参院選11名当選
- 「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」評論家・高瀬広居氏のインタビューに答えて
- 1965.7.15
- 『聖教新聞』日刊化
- 1965.7.23
- 公明 都議選で23名当選。キャスティングボート握る
- 1965.7
- 本部幹部会
「広布流布の時には、不開門が開きます。その時は、どういう儀式になるか。それは私ども凡下には測り知ることはできません。・・乃至公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが時の法華講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。後々の為に言っておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です・・・」『大白蓮華』9月号 - 1965.8.1
- 法華講東北地区連合会第1回大会(仙台・仏眼寺)
- 1965.8
- 大きな会館はつくらない
「学会は大きな戦艦のような建物はつくらないよ。全国の小さな会館が飛行機の役目をするのだ」池田発言 - 1965.8
- 北条理事長「学会と公明党は一体」
「創価学会と公明党は同体異名だ、宗教政党だ。世間ではやっばり創価学会と公明党は同じではないか、しかし、票が減ろうがどうであろうがかまわない、これが真実なのだから……。」(『前進』昭和40年8月号 北条発言) - 1965.8.14-15
- 日達猊下、池田会長ら渡米
- 1965.9
- 学会と公明党は同体異名の団体
「創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体でありますが、ともに日蓮大聖哲の教えを奉じ、王仏冥合をめざす私どもの同体異名の団体であります。・・・乃至、創価学会を離れて公明党はありえません。もしあるとすれば、既成政党となんら変ることなく、政治のための政治に堕することは必然であります。」青年部最高幹部会 (『大白蓮華』9月号 ) - 1965.9.12
- 宗門 第三回訓諭発令
- 1965.9.12
- 聖教新聞
「正本堂の建立は、事実上の本門戒壇の建立を意味します。このことは日達上人猊下のご説法によっても、明らかであります。戸田先生も我々も、一時国立会談といってきました。しかし、どこを捜しても、御書には国立戒壇建立という言葉はないのです」 - 1965.9.23
- 少年部結成(地方本部単位)
- 1965.10
- 正本堂建立御供養について
「総本山富士大石寺に、事実上の本門戒壇というべき画期的な正本堂の御供養が、いよいよ旬日に迫ったのである」『大白蓮華』10月号 - 1965.10.2-3
- 正本堂御供養受付(妙信講側)
→10/7 早瀬庶務部長より妙縁寺住職へ電話。正本堂御供養拒否。
→妙信講御供養 法華講財務部長・佐藤新太郎預かりとなる。(S44年3月8日 正式受理) - 1965.10.9-12
- 正本堂御供養受付(創価学会側)
正本堂建立のために全国1万6千会場にて355億円のご供養を集める。このご供養は一部が正本堂に使われたが、学会の会館、研修所その他に使われ、不法な使い方として、学会内部からご供養返還訴訟を起こされる。尚、海外信徒から集めたご供養は公表せず、そのまま学会が使った。 - 1965.10.16
- 理事会メモ
「正本堂御供養は、創価学会が天下を盗る瑞相である」「学会は家来ではない。旧信徒が家来になってきた」「学会は僧侶の家来ではない」等と記される。 - 1965.10.16
- 「真実の広布流布は、大聖人の宗教革命の真髄たる三大秘法の南無妙法蓮華経が、世界人類に行きわたることである。三大秘法とは南無妙法蓮華経の題目と、日蓮大聖人出世の本懐たる南無妙法蓮華経の本尊と、三大秘法の定義による南無妙法蓮華経の本門の戒壇である。されば、三大秘法の広布流布でなければ、まだ広布流布せりとはいえないのである」『折伏教典』校訂再版
- 1965.10.17
- 正本堂立御供養奉呈式(10月度本部幹部会)
- 1965.10.18
- 日達猊下「この全額を、私の依頼をもって正本堂建立ならびに広宣流布達成のための事業設備等に使用していただくために、池田委員長に委任したいと思います」(聖教新聞 昭和四十年十月十八日付)
- 1965.11.10
池田氏は会場(東京品川・妙光寺)に入るなり日達上人よりしたの配席が気に食わない、出された果物にもケチをつけ流会にさせる。- 1965.11.15
- 柿沼総監辞職。渡辺日容師総監就任。
- 1965.11.17
- 第71回臨時宗会
昭和41年
- 池田会長の執筆を代作する部門「特別書記」発足。原島嵩氏、上田雅一氏、桐村泰次氏が就任。
- 1966.1.8
- 佐藤栄作 池田氏と公明党との協力について会談
- 1966.1
- 「仏教センター」に加盟 メンバーは仏教各宗派、神道、キリスト教など
- 1966.2
- 講師筆記試験優秀答案
問5 主師親の三徳を現代生活の上から説明しなさい。 「池田先生のみ主徳を備えていらっしゃる。・・・池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる。・・・池田先生こそ親徳具備でいらっしゃる」『大白蓮華』2月号
「私から幹部の任命を受けることは、記別を受けることです。これなくしては法華経を持つといえども無益である」『前進』2月号 - 1966.2.27
- 和泉覚 理事長就任
- 1966.3.6
- 南北アメリカ訪問 3/23まで
新宗教新聞社 『創価学会犯罪白書』を刊行 - 1966.3.22
- 大石寺御影堂・三門 静岡県指定有形文化財に指定
- 1966.4.28
- 昭和新定日蓮大聖人御書第1巻刊
- 1966.5.3
- 本部総会
「猊下より、僧侶より、われわれが敬われるなどということは、とんでもないことです。(中略)信者には信者の道があります。これは皆さんも忘れてはいけません」 池田発言
広布流布構想
「昭和54年から11年目の昭和65年・・・この年を目標にして、広布流布の大総仕上げにかかりたい。こう決意している次第であります。なお、この年になりますと、それまでに参議院の選挙は八回になります。また、衆議院の選挙も、最低七回ぐらいはあるでしょう。したがって、公明党も、その時までにはひじょうに力がつくのではないかと考えます。また折伏も、一千万の基盤は、・・・昭和54年にでき上がれば、65年までには、さらに4、5百万世帯ぐらいはいくのではないかと考えられます。・・・一千万世帯になれば、いまの日本の世帯数は、二千四百万世帯ぐらいですから、ゆうに半分以上を占めることになります。そうなれば、釈尊の"舎衛の三億"の方程式は、事実上まちがいなし、それ以上の結果になることは明らかです」聖教新聞 1966年5月4日付 - 1966.6.11
- 大石寺五重塔 重要文化財に指定
- 1966.7.3
- 立正安国論講義発刊
「日蓮大聖人建立の三大秘法は、我々創価学会員の手による正本堂をもって完全に終了するのである」P659 - 1966.7
- 正本堂建立の為、墓地移転通知
- 1966.8
- 「私の構想は、大聖人の仰せと寸分狂っていない」(「前進」8月号 池田)
池田 婦人部引き連れハワイ旅行
66年8月、「ハワイ特別指導」の名のもとに、池田氏が全国の婦人部幹部クラス48人をハワイの寂光山本誓寺に引き連れていった時のスナップなのだ。
当時、池田氏は38歳。'60年に第3代創価学会会長に就任して6年目で、この頃から学会は2代目・尸田城聖会長路線を脱し、池田色を強く押し出すようになった時代である。ある学会関係者は「この旅行は、いねば幹部へのこほうびです。旅費は参加者も多少負担しますが、ほぼ学会から出ています」と語る。
(平成8年6月28日号 フライデー) - 1966.9.1
- 東京墨田区に法華講富士会館建立
- 1966.9.18
- 大阪にて「雨の文化祭」開催
- 正本堂建立事業計画により土地買収を開始
創価学会は富士宮の土地を300万坪にも渡り買収。そのほとんどが農地であったため、法律上の手続きを必要とした。しかし、それを無視したため、47年時点で7割近い土地が転用を許されない違法の状況となる。この追求を逃れるため、学会は富士宮に対し、金をばら撒き反対者を懐柔。その結果、池田は国内から唯一の名誉市民称号を得る。また、反対住民への押さえつけには地元暴力団が関与。後に学会との関連が表面化した。池田はこの工作の一つとして、富士宮市を"創価市"にするよう山崎正友氏に命令した。 - 1966.9.25
- 学生部 『グレート・イーグル』を刊行
台風24号被害
丑寅勤行中、客殿東側ガラス大戸七枚大破、数十名負傷。 - 1966.10.4-13
- フランス出張御受戒(早瀬道応師)
- 1966.12
- 池田 選挙妨害指南
「ある日、堺の選挙事務所が、酔っぱらいに荒らされた。報告を受けられた先生(※池田大作氏のこと)は『すぐ一一○番に電話して警察に来てもらいなさい』と指示され、(中略)『“いま、対立候補が、こちらの選挙事務所になぐり込みをかけてきました。そのため皆さんに、たいへん、ご迷惑をおかけしました”といって御近所を全部回りなさい』と指導された。(中略)そして先生は『対立候補は悪らつな妨害をやる。“選挙事務所になぐり込みをかけてきた”という印象を与えればよいのだ。特定の候補の名を出さず、一軒一軒手を打て』といわれた。」『前進』12月号所載・将軍学を学ぶ 【資料】➡
昭和42年
- 1967.1.30
- 衆院選で25名初当選
20年に及ぶ竹入委員長、矢野書記長体制に - 1967.2.1
- 竹入委員長 就任後のイソタビユー
「池田会長から申し渡されたばかりで、正直いって面くらっています」(『毎日新聞』42年2月1日) - 1967.4.9
- 渡辺総監御遷化
- 1967.4.24
- 早瀬道応師 総監就任
藤本栄道師 庶務部長就任 - 1967.5.13-29
- 日達猊下、池田ら一行欧米へ
- 1967.6.2
- 「総じていえば、日蓮大聖人直流の門下にすべて相伝があるといえるが、別していえば、法体の血脈相承はただ一人に限る。日蓮大聖人の付嘱が唯授一人の日興上人であらせられることは、二箇相承に明らかである」『聖教新聞』
- 1967.6.15
- 大石寺蔵大聖人御真筆御書26巻 重要文化財に指定
- 1967.6.25
- 第1回「社長会」.
昭和47年4月18日まで61回開催。 (総じて学会系企業の社長出席による会合)
第1回社長会〔於小富美〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1967.7.20
- 第2回社長会〔於春日〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社)
佐藤総理と学会の密通
七月二十日
「十時登庁。国会も明一日残すのみとなっだので、最後の勉強を党側に指示する。何よりも防衛二法を通過さすこと、その為に大津君(首相秘書官)を創価学会池田会長に連絡をとらす。会長が幸いに引きうけてくれたので一寸安心。又その約束通り議事がとり運ばれた」(『佐藤栄作日記』第3巻) - 1967.8.7
- 学生部部員20万人
- 1967.8.17
- 第3回社長会〔於ホテル・ニューオータニ〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1967.8.29
- 日蓮正宗教師必携刊
- 1967.9.1
- 学会本部文化会館の落成(信濃町)。
「大聖人の仰せの通りの立派な信心を貫いたならば、幸福にならないわけがない。大御本尊の功力は、絶対であるとの確信に立ち、偉大な功徳を受けきる信心貫き通すと共に、後輩に、その事を教えきって戴きたい。」(池田会長指導)
池田氏 富士短期大学を卒業
『この年をして(卒論を)百枚も書いたんです』と発言。
⇒卒業論文は後年教学部長を務めた桐村泰次氏に書かせたと原島氏が告白。 - 1967.9.27
- 第4回社長会〔於松野茶屋〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1967.10.2
- 座談会会場で殺人事件
愛媛県新居浜市の座談会会場で参加していた青年部員・神野忠信が、ささいな怨みから地区部長を刺殺。服役10年後、再び学会活動に励んだが、選挙活動の帰途、車ごと谷に転落し死亡。 - 1967.10.10
- 正本堂発願式
- 1967.10.15
- 東京文化祭(国立競技場)
- 1967.10.21
- 第5回社長会〔於青山・天満寿〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1967.11.25
- 第6回社長会〔於小富美〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1967.11
- 内藤国夫『公明党の素顔』の出版妨害
当初の出版社からエール出版に換え、出版を予定していたところ、大手取次ぎなどに学会の妨害が入りる。 エール出版に学会・山崎尚見から「これまでかかった諸費用はすべて面倒見る」「出せば必ず売れる創価学会の本をお宅にお願いするから」と申入れる。また、学会は、笹川良一に内藤の本を全部買い取らせる工作をしたが、内藤は拒否する。 - 1967.12.20
- 第7回社長会 〔於吉兆〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社)
昭和43年
- 1968.1
- 植村左内 学会批判しないいよう調印
元学会員で『これが創価学会だ』の著者。出版妨害された挙げ句、今後、学会批判を書かないよう文書に調印させられる - 1968.1.10
- 第8回社長会 〔於ホテル大倉〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1968.2.10
- 第9回社長会〔於築地・小富美〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1968.2.12
- 佐藤首相 国会の空転により池田氏に援助頼む
- 1968.2.16
- ブラジル一乗寺開院式
- 1968.3.22
- 第10回社長会 〔於プリンスホテル〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1968.3.28
- 昭和新定日蓮大聖人御書第2巻刊
- 1968.3.29
- 宗務院 全国15布教区を29布教区とする
- 1968.4.1
- 創価中学・高校開校
- 1968.4.26
- 「慶大会」結成 池田出席
- 1968.4.29
- 第11回社長会 〔於南伊東・井清寿〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1968.5.3
- 第31回本部総会
「正本堂こそ正に事実上の本門戒壇建立であり、諸国の梵天帝釈来下する姿は、まことに世界平和の象徴ではありませんか・・・」総務・多田省吾 - 1968.5.23
- 第12回社長会 〔於初波奈〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1968.7.7
- 参院選13名当選
集団替え玉投票8人有罪
毎日新聞は「投票入場券、十万通消える 大量の不正投票か 世田谷など本人の手に届かず」(7/10日付・夕刊)と伝える。 郵便受けなどから6千枚もの投票所入場券を盗み出し不在者投票させたもの。池田会長は事件に関わった者に「法難章」としてメダルを与える。 事件には創価学会新宿第三総合ブロック・宮本孝が替え玉指揮官、欧州第二本部・砂川昭夫が副将となり、北林芳典が「戸二読書会」の名目で住民票を閲覧して、替え玉投票を組織、警察に摘発される。 東京地裁は、砂川に禁固1年、執行猶予4年、北林に禁固4ヶ月、執行猶予3年など8人に有罪判決。【資料】➡ - 「船の科学館」に使用する都の跡地払い下げのために公明都議が笹川良一氏に便宜を計る。
- 1968.7.8
- 第13回社長会 〔於ばん居〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1968.7.12
- 「一橋大会」結成式
- 1968.7.23
- 「京大会」「同志社大会」の結成式
- 1968.7.31-8.1
- 第14回社長会(臨時)〔於三崎会館〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1968.8.3
- 第15回社長会〔於日本図書・椿山荘〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1968.9.8
- 日中国交正常化を提言
➡学会は「池田大作先生が正常化の道を開いた」と喧伝するが、すでに尽力をしている日本人が少なからず存在しているたことが、歴史的事実である。その中の一人に過ぎない。 - 1968.9.11
- 池田氏 替え玉投票事件の首謀者暴露
【池田の弁】「八矢君(八矢英世副会長 創造社代表)の今回の失敗は前回の区議選の時、正論を言っていられず、秋谷が失敗した。その戒を自分の戒としてやれば、こんな事はない。慎重な反面、傲慢な面がある」社長会
【八矢の弁】「これは私の担当していた一つの新宿区でございましたが、非常に悪質な選挙違反がありまして、私はその総括責任者として非常に、その監督がまずかったわけでございます。で、お前はそういうような非常に油断をしているところがあるというので、大変、度々(池田大作に)叱られました」('81/3月 社長会記録の著作権をめぐる裁判での八矢証言)
第16回社長会〔於光亭〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 隈部大蔵氏は都内赤坂プリンスホテルで、公明副委員長・北条浩から「創価学会という象は蟻の一匹といえども全力をもって踏みつぶす」と脅かされる。
- 1968.10.10
- 「早大会」結成
- 1968.10.24
- 第17回社長会 〔於三菱関東閣〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1968.11
- 11月度本部幹部会 池田会長不信心を露呈
葬儀について
「先日から一般の新聞などに葬式の合理化運動の記事が出ています。形式だけの葬式を改革しようという動きで坊さんを呼ばないとか、死亡通知だけでよい、という様な考えです。これも、私は大賛成です。御本尊様に朝晩題目をあげて、事の一念三千の当体である我々です。死んでだれにお経を読んでもらう必要がありますか。我々こそ、葬式の最高の近代化、合理化の先駆者です。日蓮正宗は葬式仏教ではなく生きるための仏教です。葬式に必ずしも御僧侶を呼ぶ必要はない」
塔婆について
「従来、人によっては、五本も十本も塔婆をたてて追善供養してきたケースがありましたが、原則は一本ぐいいのです。あとは回向料として、御供養すればよい。こういう細かなことをいうのは、日蓮大聖人の仏法が、末法万年にわたって永遠に合理性をもら、近代的であるからです。事実、御書をみても、塔婆を何本立てなさいという指導はどこにもありません。」(「池田会長講演集第一巻」)
➡池田氏の「僧侶はいらない」に至る謗法指導の始まり。 - 1968.11.21
- 第18回社長会〔於箱根・松の茶屋〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1968.12.27
- 第19回社長会〔於吉兆〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社)