昭和26年
- 1951.3.11
- 東京建設信用組合正式に解散
- 1951.3.17
- 高野日深師 宗務総監に就任
- 1951.4.20
- 機関紙「聖教新聞」発刊(月3回発行、5000部)
- 1951.5.3
- 戸田氏第二代会長に就任(東京・常泉寺)
就任に際して戸田会長の指針
「学会はいま、日蓮大聖人様の命をうけて、弘安二年十月十二日にお顕わしになられた、一閻浮提総与の大御本尊様を、日本に流布せんことを誓う、これ第一条であります。また、もしも、この南無妙法蓮華経が東洋へ行かずば、日蓮大聖人様のおおせは妄語となり、大聖人様の仏法は虚妄となるのであります。大聖人様の予言をはたす仏の弟子として、東洋への広宣流布を誓う、これ第二の目的であります。第三に正宗本山をはじめとし、全国百五十有余の末寺にいたるまで、荒れはてなんとしている現状であります。これは、いままでの壇信徒が題目のみを唱えて折伏をせず、本尊流布をしないゆえであります。しからば学会は如何。総本山との交流をはかり「日蓮正宗日本にあり」と仏法界に示すこと、すなわち学会魂で、以上の三箇条を遂行するのが私の目的であり、学会一同の願いなのであります」(創価学会に関する48問答)
7年間で75万世帯を折伏することを目標に掲げ、もし出来なかった場合には自分の葬式は出さずに、骨は品川沖に投げ捨てて欲しいとの決意を示した。
式後、戸田は新組織機構と人事を発表した。筆頭理事に和泉覚、理事に柏原ヤス、森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治、辻武寿をあて、理事長は空席のままで、それまでり理事長・矢島周平をヒラの理事からも追い落した。各部の部長は、指導監査に矢島、財務和泉、講義原島、指導柏原、婦人和泉みよ、青年辻、男子牛田寛、女子小島栄子、企画原島、秘書室石田次男という構成で、講義部の部員は教授- 助教授1 講師- 助師の四段階にラソクづけされた。池田はただ講義部の最後尾の助師と、蒲田支部の大森地区委員に任命されたにすぎなかったが、それでも、創価学会の発展が即、池田の出世という位置にかろうじて連なっていた。(『池田大作 権力者の構造』三一書房) - 1951.6.10
- 第一回本部婦人部委員会(婦人部)を結成
「仏教上、仏と称される方は、かず限りなくおられるが、その、かずかぎりない仏は『時』と『所』と『衆生』とに応じて、一人一人ご出現になることになっている。けっして一度に二人の仏は出現にならないのである」(「折伏論」での戸田会長) - 1951.6.10
- 「僧侶の大功績」 戸田会長指導
「この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけているものが、おったりするものだけを見るから、宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっぱい食うことを、唯一の願いであるとしている猫坊主が多いと攻撃して、功績の方を見ない。この教団の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く、ありがたく、かつ一面には、猫もねずみも出るであろう。かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない。かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人ご出世のご本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表わせぬ一大功績が、この教団にあるのである」 (「巻頭言集」) - 1951.7.3
- 財務部結成 (生活にゆとりのある会員を面接で決める、推定で60万人で一人年間4000円)【広布基金・財務について】
- 1951.7.11
- 男子青年部結成式(学会本部にて)
- 1951.7.19
- 女子青年部結成式(学会本部にて)
- 1951.7.22
- 学会本部の御本尊は開眼供養された
広宣流布大願の曼荼羅をお願い申しあげ、精兵つどい寄って、壮大な開眼奉戴の式が営まれたのである。(『戸田城聖先生講演集上』 昭和26年7月22日 学会臨時総会) - 1951.8.31
- 「自分を折伏してくれた恩人は、善知識というのであって、『師にもあらず、弟子にもあらず』という立場なのである。学会において、教化親などとのことばをつかい、折伏した人を、あたかも自分の意志どおりに、動かしてよいのだというような、 あやまった考えをもつものは、断固として処分するゆえに、このさい、はっきり認識しておいていただきたい」 (支部長会での戸田指導)
- 1951.9.1
- 講義部を教学部に改称(受講者を1~5級に分ける)
- 1951.11.18
- 『折伏教典』発刊
- 1951.12.13
- 宗務院より12月18日午後2時登院するよう大講頭戸田城聖へ命令
- 1951.12.18
- 宗教法人設立につき三原則了承
宗門は学会の宗教法人設立については法的問題で関知するものではないが、その設立の趣旨及び原則を守る様要望。
戸田会長はこれを了承。 - 1951.12.20
- 聖教新聞「宗教法人設立趣旨」発表
「我々の折伏活動が全国的活動となり邪宗との決戦に至る時の大難を予想し本山を守護し、諸難を会長の一身に受けるの覚悟に他ならない、ということ。二つには、将来の折伏活動の便宜から宗教法人でなければならない。」(戸田会長発言) - 1951.12
- 秋谷栄之助 日蓮正宗に入信(後の第5代創価学会会長)
昭和27年
- 1952.1
- 池田氏 蒲田支部幹事に
- 1952.2.9
- 池田氏 青年部参謀に
- 1952.3.2
- 杉並支部第一回総会
「成仏というのは、すごい境涯である。その証拠として、死ぬ前にほんとうの歓喜の生活が送れるのである」 - 1952.3.10
- 池田氏『天下を取ろう』 聖教新聞で当時参謀であった池田が常に言っていた言葉を紹介。「同君(池田)は常に言う『天下を取ろう』と」
- 1952.4.24
- 「新編 日蓮大聖人御書全集」完成
- 宗旨建立700年慶祝記念大法要(4.24-28)
- 1952.4.27
- 狸祭り事件起こる
宗旨建立七百年祭(総本山大石寺)
戦前、宗門僧侶・小笠原慈聞が唱えた「神本仏迹論」が原因で牧口が逮捕、獄死したと青年部が逆恨みし、牧口の墓前で謝罪状を書かせた事件。これによって戸田は一時、参詣禁止の処分を受ける)
事件後、小笠原が医師の診断書つきで発表した手記によると、戸田は″生意気いうな″ と小笠原の右耳、頭を強打し、行動部隊の多数も殴る蹴るの暴行を働き、彼の衣を脱がせてシャツー枚にしたという。(中略) 日蓮正宗側も事件を重視し、その宗会は、戸田の謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止を全会一致で決議した。
戸田は早速、巻きかえしに出、幹部に宗会議員を訪ねさせて各個撃破し、決議を事実上つぶした。池田も七月、文京区戸崎町の白蓮院を訪問し、全面取消しを約束させている。戸田はまた本山には五重塔の修復を申し出て宗会決議の適用をまぬがれたうえ、宗務院の一部役員を小笠原押えこみに動員した。さらに日蓮正宗信者で創価学会批判者の関戸了三の公表した文書によると、創価学会は総本山宗務院の役員を伊東温泉に招き、芸者をあげて接待したという。こうした戸田の根まわしによる本山の圧力と三十万円の慰謝料で、小笠原は否応なく手をうたされ、後には創価学会の資金援助で同会との争論を詫びる『日蓮正宗入門』を刊行するまでに懐柔された。(池田大作権力の構造 三一書房)(『黒い〝鶴〟のタブー』、『赤旗』45年5月1日、1日所蔵) - 1952.5.3
- 池田氏 白木かね(香峯子)と結婚。目黒区三田に移転
- 1952.5.18
- 池田氏 情報参謀に
- 1952.5.23
- 小笠原慈聞師 「創価学会会長戸田城聖以下団員」による「暴行事件の顛末」と題するパンフレツトを作成して全国の正宗寺院に送付
- 1952.6.26-29
- 宗門第47回臨時宗会
4.27の集団暴行の件により
1.戸田城聖の大講頭罷免
1.戸田城聖の登山停止
その他を決定。 - 1952.7.6
- 学会 宗会の決議取り消し要求
男子青年部会(池袋・常在寺)
宗会と闘争宣言 【狸祭り事件から】
きょうの会合が、いかに重要であったかは、いままでのお話でよくおわかりのことと思う。 創価学会の目的は、日蓮大聖人様のおことばを虚妄にしないことである。戸田先生は、仏敵たる悪侶をきちんと退治し、その結果が登山停止となった。ここに大難が現われた。ここで、われわれが戸田先生の旗本として、しっかり先生を擁護するのだと、はっきりと腹に決め、あすからの実践に移す。(当時、男子第四部隊幹部長 会長講演集第三巻) - 1952.7.24
- 日昇上人 戸田会長に誡告文
- 1952.7.24
- 戸田会長 4.27の集団暴行事件につき御詫状を提出。五重塔修復を発願
- 1952.8.27
- 宗教法人『創価学会』設立
- 1952.10.4
- 月例登山会開始
- 1952.10.21
- 女子部「華陽会」が始まる。(戸田の薫陶による女子部の育成)
- 1952.10.27
- 「そういう人生をよくみつめ、自分観、人生観、社会観、宇宙観、この四つをきちっとまとめているのが仏法なのです。世間法は、この四つのうちのひとつにひとつに分離されているので、映画を見ても、これは自分観であるとか、社会観であるというように、はっきりと判断できるような信心になれば、自分の悩みが解決でき、なんの悩みもない、すばらしい生活ができるのです」 報道班員の質問会
- 1952.11.7
- 御法主上人を悩まし奉った罪は、ただ全国大折伏をもって、ざんげ滅罪、もっておわび申しあげる決心でおります。(戸田城聖先生講演集上)
- 1952.12.16
- 男子部の人材グループ「水滸会」の初会合(38名)
(昭和31年5月まで続く)
次代のリーダーを育成するための"松下村塾"である「水滸会」が発足し、"エリート訓練"が開始されました。以来、昭和五十年代までの創価学会・公明党の中枢幹部達は、ほとんどが「水滸会」出身者で占められています。この「水滸会」で、後の首脳達へ叩き込まれた"天下盗り"のための戦略戦術を記録したものが、「水滸会記録」。 さらに、昭和53年ごろ、戸田会長の言行録として、池田氏が密かに副教学部長・佐久間昇に命じて作らせたものが『水滸会遺誡置文二十六箇条』と題する改ざん文書。
内容の一部
「●総理大臣について 今の総理大臣の権力は明治時代の天皇以上である。総理大臣になれば、日本を自由にすることができる権限を持つことができる。自衛隊を動かすことのできる権力を持っている。ある意味では広宣流布しやすくなったな」
「●官庁閥 問 われわれが将来、一番とりにくい所はどこですか。 先生(戸田二代会長のこと) 官庁だな。それには優秀な人を抜擢して先輩が自分より出世させ、 出世したものが又後輩を引き立てて行くしかないな。警察などの場合、警部補、部課長クラスを占めてしまえば強いものだ。将来、二万の青年が各官庁や社会の重要ポストを占めるようになれば、その仲間同士で何でもできる。だから青年に国家改革を頼む以外にないのだ」
「●日本の広宣流布 『政治家対策』 一人の議員をつかんで、自由に動かすのは、買収費と小遣銭を入れて、一年に四百万円(昭和三十一年当時)かかる。百人で四億円だ。それが一つのホシになる。 四億円あれば日本を動かすことができる。広宣流布も最後は経済だ。」 【詳しくは】➡ - 1952.12.21
- 第一回教学試験
- 1952.12.27
- 宗教法人 日蓮正宗設立登記
昭和28年
- 1953.1.20
- 福島県妙福寺で謗法払い事件
- 1953.1.2
- 池田 男子部第一部隊長就任
- 1953.3.15
- ほんとうにこの世の生活も、後生も良くなるのは、日蓮正宗だけだ。(戸田城聖先生講演集上)
- 1953.3.29
- 御本山にと奉公の誡
わたくしども学会は、御本尊様、御本山のために誠を尽くしたい。支部長、圸区部長はじめ、幹部はよろしく協力せられたい。(中略)学会本部も建てなきゃならんが、学会のことはあとまわしにして、ご奉公したい。どうかまたご苦労であるが、ひと骨折ってくださるよう、お願いいたします。(戸田城聖先生講演集上) - 1953.4.18
- 第1回法華経研究会(学会本部分室)
- 1953.4.19
- 男子青年部第1回総会
「御本尊様は、われわれを幸福にする機械である。最後に、第四に、政治、経済と、諸君の立場についていう。共産主義か、資本主義かという問題がある。わたくしからいえば、どちらでも自由である。これらは、一分科に過ぎない。これらは政治と経済の面からのみ、人類に幸福を与えるだけである」 - 1953.4.20
- 池田氏 文京支部長代理に
- 1953.4.20
- 池田氏の長男・博正誕生
- 1953.4.30
- 福島県妙福寺の謗法檀徒を離檀処分
- 1953.5
- 秋谷栄之助論文
「相伝がない所に仏法は存在しないし、相伝がない本尊を拝めば、功徳がないばかりか、正法にそくむ謗法である」 「然るに一般日蓮宗は(中略)或いは経巻相承なんどと稱(しょう)し、大聖人様の仏法は唯授一人という狭義ではないなどと、全く総別の二義をわきまえざる僻見を立てている」(大白蓮華・相承の重要性について) - 1953.5.17
- 御書編纂について
事実、猊下は、学会の力をつけるために、もったいなくも、生まれてきておられるのである。猊下は、五十年かかって、日蓮大聖人様の仏法をまとめられ、猊下の頭にはすでに御書が一冊きちんとはいっている。それだからこそ、御書編纂に、身延でも三年前からかかっているというのに、われわれは一昨年九月に決心し、昨年四月にできた。しかも、りっぱなものができあがった。これは、猊下たったおひとりの力である。そして、いままでにない御書を編纂できた。これは、まったく猊下のおかげである。学会がこれほどに教学の力があるのは、猊下がいらっしゃればこそである。このように猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである。(戸田聖城全集第4巻 東京・王子百貨店ホール) - 1953.5.31
- 学会建立寄進第一号の正継寺(相模原)落成入仏式
- 1953.6.21
- 「わたくしは好きなことをやっている凡夫なのです。もし、わたくしが生き神様とか、生き仏とかいわれるならば、とっくの昔に死んでいます」私は末法の凡夫から
- 1953.7.21
- 水滸会を再結成(学会本部・青年部43名)
池田大作による宣誓文起草
一、われら水滸会員は、宗教革命にこの身をささげて、異体同心にして東洋の広宣流布の大偉業を完遂せんことを、大御本尊様にお誓いいたします。
一、われら水滸会員は、戸田城聖先の大目的たる人類救出の御意志を受け継ぎ、その達成には、身命をささげて戦い抜くことを誓います。
一、われら水滸会員は、学会の先駆であるとともに、戸田会長先生の無二の親衛隊なることを自覚して、いかなる事態になろうとも、かつまた、いかなる戦野に進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、水滸会の使命をまっとうせんことを誓います」(『大白蓮華』昭和39年2月号) - 1953.8
- 創価学会元理事長・矢島周平氏 日蓮正宗の僧として出家
- 1953.8.29
- 『南無妙法蓮華経』の境涯で申すならば、『南無妙法蓮華経』は名まえである。その本体はどこにあるか。日本国、富士大石寺に御本尊様まします。その特質はなにか。『いっさい衆生の苦を救う』というのが宗である。教はなにか、大御本尊様の教えは、従えば利益あり、そむけば罰がある。(戸田城聖先生講演集上)
- 1953.9
- 『聖教新聞』週刊から日刊に
戸田「原爆は平和利用」と肯定
「譬えば原子核の分裂と云う事は今の科学に於ては最高のものであるが、この原子核分裂の定理は単なる学問として止まるものに非ずして、平和を守るための原子爆弾として行動化されている。」(『価値論』牧口常三郎 戸田城聖補訂)
- 1953.9.20
- 世の中は、正反の原理で成り立ち、貧富、強弱等、さまざまな生活をしている。いったい人間は何のために生まれてきたのか。これを解決してくれるのが仏様であり、末法では日蓮大聖人様である。
われわれは、ほんとうは、楽しむために生まれてきたのである。おしるこに少量の塩を加えて甘みを増すごとく、苦しみがあるから楽しめる。そこで、絶対の幸福をうるためには、一閻浮提総与の大御本尊様を拝む以外に道はない。
仏教は、生命を対象とした科学であり、科学は物を対象として研究されている。御本尊様は、われわれ人間を絶対に幸福にしてくださる″機械″であり、この尊い御本尊様が日本の国にあるにもかかわらず、拝まぬのはバカです。
次に、邪宗を破折する方法をひとつ教えよう。広宣流布の暁、天皇が御本尊様を拝みたいとおおせられたときに、日蓮大聖人様のお遺しくだされた御本尊様は、いったいどこにあるか。わが大石寺の御宝蔵に、紫宸殿御本尊様がきちんとまします。邪宗には絶対ない。
最後に、日蓮正宗の御本尊様を拝めば、絶対に幸福になれる。朝夕の勤行と、年に六人の折伏をつづけたなら、一年後のきょうまでに、現在ある悩みはかならず解決する。心に願いをたてよ。さあ題目を唱えよう。(戸田聖城全集第4巻) - 1953.11.13
- 学会本部 西神田から信濃町に移転完成
戸田は新宿区信濃町三十二番地の元イタリー大使館付武官の私邸(洋館、二階建)を千百五十万円で買い取り、二百万円で改造して創価学会の新本部とした。(池田大作権力者の構造)
- 1953.11.18
- 「価値論」(牧口常三郎著)発刊
- 『池田氏 「太作」から「大作」に改名
- 1953.12.23
- 男子青年部第2回総会
【宣誓】 戸田会長先生、われわれは末法大折伏の師匠たる、はたまた、全世界の大哲学者たる先生のわれら青年に対する期待の大なることを思いますとき、われら一同、感激の念でいっばいであります。
いま、五千有余名の勇士の結集をここに終わり、きたるべき七百二年からの大法戦に対し、われらは次のごとき宣誓をなすものであります。
一、われら男子青年部勇士全員は、宗教革命に比の身を棒げ、ともにその心を一にして、東洋広宣流布の大偉業を完遂せんことを、謹んで大御本尊様にお誓いいたします。
一、われら男子青年部勇士全員は、戸田城聖先生の大目的たる、全人類救出の御意思を受け継ぎ、りっばな手駒となって、その達成には身命をささげて戦い抜くことを誓います。
一、われら男子青年部勇士全員は、学会の先駆であり、戸田会長の無二の親衛隊なることを自覚し、いかなる時代になろうとも、いかなる戦野に進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、われらの使命をまっとうせんことを誓います。
右、謹んで宣誓いたします。
昭和二十八年十二月二十三日
男子青年部代表 第一部隊長 池田 大作 (当時、青年部教育参謀、男子第一部隊長) (「会長講演集第三巻」)
「さきほど辻君が、折伏の仏であるといわれたが、仏は末法には日蓮大聖人様以外にいない。これは訂正しておき。しからば、私は凡夫である」(戸田指導「すべての階層の指導者」)
昭和29年
- 1954.1.29
- 御供養について
登山会の折に、所化小僧さんに御供養するが、あなた方のなかには、小僧さんが喜ぶからと思っている人があるが、これは正月十五日、代々の御法主猊下が、所化小僧さんにごちそうをする。これは、広宣流布のときに、再び御出現の日目上人様が、もしや、このなかにおいでになるかも知れぬということから、お山の伝統の行事である。私も、登山の折には、その気持ちで御供養申しあげているのです。これが大事なことです。ものの見方がわかれば、ものごとはすべて成就する。(戸田聖城全集第4巻 東京・豊島公会堂) - 1954.2.8
- 戸田 4級講義の後、本部で倒れる
- 1954.3.28
- 鶴見支部第三回総会
「かれらが責められれば身延や中山にならって、三宝を立て、釈迦が仏、法が南無妙法蓮華経、僧は日蓮聖人などという。バカげた三宝です。仏と法はそろわなくてはならない」人法一箇についてから - 1954.3.30
- 池田大作氏 青年部参謀室長に任命
情報部を設置 池田氏が情報部最高顧問に就任
池田氏 この頃には大蔵商事から離れる - この時期の部隊名 人員
第1 1,411 (蒲田) 第2 1,000 (鶴見) 第3 650 (小岩) 第4 594 (足立) 第5 352 (杉並) 第6 361 (向島) 第7 286 (中野) 第8 272 (築地) 第9 221 (本郷) 弟10 191 (文京) 第11 141 (志木) 第12 139 (城東) 第13 435 (仙台) 第14 468 (大阪) 第15 50 (八女) - 1954.4.30
- 青年部大総会(御茶ノ水・中央大学講堂 4000人)
新編成の男女部隊に部隊旗授与 - 1954.5.3
- 第10回春季総会(最高首脳陣の交代)
ありがたくも、本日は、御本山の猊下のお出ましをねがい、畑毛の猊下のお出ましをねがって、われらとしてはこれ以上の名誉はない。来年のきょうまでのあいだに、ほんとうに功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊様を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。それでは、私が導師となります。 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」 どうか、功徳を祈っていただきますように。(戸田聖城全集第4巻 東京・両国の国技館) - 1954.6.20
- 日蓮正宗以外、ぜったい、だめだとい々証明がある。
それは、広宣流布の時がくる。きたときには、天皇陛下のお使いがくる。そのときに、紫宸殿の御本尊様がある。この御本尊様を、どこの宗派が持っていけますか。仏立宗、佼成会、身延、中山、池上にありますか。富士大石寺だけにあります。この御本尊様があるということひとつで、証明できます。これでもって、安心して、日蓮正宗の御本尊樣を、たいせつにして拝みなさい。(戸田城聖先生講演集上) - 1954.9.4
- 水滸会第一回野外訓練(奥多摩・氷川キャンプ場)
- 1954.10.30
- しからば、真の宗教とはなにか。それは、いうまでもなく日蓮大聖人様の教えを、そのままに実践している日蓮正宗である。(戸田城聖先生講演集上)
- 1954.10.31
- 青年部一万名総登山
- 『大白蓮華』39号
「彼等の迷論は実に相承に総別の二義即ち法体・法門相承の二義があるのを知らぬ事から生ずるのである」 - 1954.11.3
- しかも大聖人様の仏法が、正しく、強く七百年間守られてきたのは、富士大石寺、日蓮正宗なのであります。(戸田城聖先生講演集上)
- 1954.11.7
- 青年部 初の体育祭「世紀の祭典」を開催(下高井戸・日大グランド)
- 1954.11.22
- 「文化部」を設置
- 1954.12.13
- 渉外部設置 池田氏が渉外部長に就任
- 1954.12.15
- 全国に寺院を建設しよう
折伏することと、お寺をだいじにすることと、御本山へつくすことはたりまえのことなんだからね。それが、自慢のようになっては、もう、信者としては資格が
ない。(戸田城聖先生講演集上)
昭和30年
- 1955.1.24
- 「蓮華寺事件」
日蓮正宗の寺(のちに離脱)に対する威迫行為 - 1955.1.28
- 池田氏の次男・城久誕生
- 1955.2.4-10
- 布教師 名古屋地方巡回
- 1955.2.21-27
- 布教師 関西地方巡回
- 1955.2.26
- 読売新聞社に抗議
池田渉外部長らは「はびこる創価学会・県下の信徒五千名」と掲載されたことに読売新聞本社、浦和支局に抗議。 - 1955.3.5-15
- 布教師 福島県巡回
- 1955.3.8-16
- 布教師 北海道地方巡教
- 1955.3.10
- 小樽法論(小樽市公会堂)
三月四日突然に御本山の細井庶務部長と早瀬教学部長の御来訪を本部にて受けた。何事であろうかとお伺いした所が、小樽の妙照寺の住職阿部尊師から小樽の身延派の寺と法論をするから応援して欲しいとの手紙が来た、しかもそれは小樽の創価学会の班長から口火が切られたとのことであった。(中略)
そこで即座にこの法論は私がお引受けいたしますから心置きなく法主上人の御供をしていただきたいと申しあげた。(戸田城聖談 『小樽問答誌』)
日蓮宗身延派と公開法論 昭和30年3月、創価学会の大進出による檀家の減少にたまりかねた 身延派では、学会員の少なかった北海道小樽で、法論対決を迫ってきた。(日蓮正宗教学小辞典創価学会教学部編より、S47年版) - 戸田会長「創価学会はいつ、つぶれてもいい」
有名な小樽法論というものがありますが、ちょうどその時は、日蓮正宗の宗務院の役職員も小樽に行っておったようでありまして、私はその時にはまいりませんでしたが、その法論のあとで、僧俗が集まっての会合があったようであります。
その時に戸田氏が、「創価学会はいつ、つぶれてもいいのである。しかし、宗門だけは絶対につぶしてはいけない。宗門のための創価学会である」という旨のことをはっきりと言われたということを、その席に在って聞いておられた方が日記に書いておられたのです。その日記を見て、先日、私の所に持ってきたのが、本日ここにも来ておりますが、品川の妙光寺の住職で、宗務院の海外部長でもある尾林広徳師であります。
この尾林海外部長は、その日記を書いた本人、つまり元の妙光寺の住職で、当時の宗務院庶務部長を務められていた柿沼広澄師、のちの大東院日明贈上人の弟子でありますので、その関係でその日記を読む機会があったのであります。
まさしく戸田氏は、今後の創価学会のことを慮って、常に色々な所で、「あくまで正しく法を護るべきである。そのところに創価学会の本当の目的といい、存在の理由が存するのである」ということを述べておるのであります。
したがって、戸田会長のころの創価学会の在り方は、その根本精神において、あくまで総本山が根本であり、そのための創価学会であるという気持ちの上から、あの大折伏が遂行されたということが、はっきりと言えるのであります。(平成4年3月29日 法華講連合会 第二回壮年部の大会の砌 日顕猊下 『大日蓮』H4.5月号) 日記→ - 1955.4
- 文化部員から統一地方選に出馬
都議、横浜、川崎市議など52名が当選 - 1955.5.29
- 男子部一万名登山
- 1955.6
- 池田氏 大田区東矢口(小林町)に移転
- 1955.7
- 『大白蓮華』7月号 戸田会長指導
「心構えが一切衆生の為なら、勝手に御本尊を書写しても御利益があると思い込んでいるから、やたらにニセマンダラがとび出すのである」 - 1955.8.23
- 広宣流布といっても日蓮正宗でなければだめ
創価学会、日蓮正宗だけで広宣流布するなどというけれども、ほかでもやってもいいのではないかと。広宣流布だなどと、身延がきっと言いだすかもしれない。身延でもやってもいいのではないかと、こう思うでしょう。だが、ほかでは絶対だめなのです。これだけは、絶対、日蓮正宗でなければだめなのです。(戸田城聖先生講演集上) - 1955.8.24
- 北海道地方折伏講演会
われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺されてある。これは、弘安二年の十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年の十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。(戸田聖城全集第4巻 札幌市商工会議所) - 1955.9.18
- 「わが日運正宗は絶対に幸福になるか。なぜなら、大聖人様の本懐である三大秘法の弘安二年十月十二日の大御本尊様が、おすわりあそばされているからです。」
「日蓮正宗の信仰は邪宗と違って、われわれの生活のうえに重大な影響を与えている。絶対に幸福になるという影響がある信心と折伏を申し上げて私の講演を終わります。」(戸田城聖先生講演集上) - 1955.9.30
- 私はその罪は戸田にありと感じ、なにがなんでも、日蓮正宗を興隆しなければならないとつとめてまいりました。(戸田城聖先生講演集上)
- 1955.10.31
- 「会員には、いっさい心配をかけない。金はぜんぶ自分がつくるという気持ちのなかに楽しさを感じていた。信心とは金に通ずるものではない」学会員に負担をかけるなから
- 1955.11.5-12
- 布教師 北関東地方巡回
- 1955.11.19
- 毎日新聞「学会の折伏は破防法に抵触」と報道
「最近創価学会などの新興宗教が軍隊化した組織を利用、なかば暴力的に信者獲得運動を行っている。まだ事情を調査する程度だが、影響ある場合、破防法を適用するつもりである」との談話が掲載されている。(昭和30年11月19日付 毎日新聞) - 1955.11.23
- 奉安殿落成入仏法要並びに大御本尊御遷座法要
- 1955.12.13
- 関西本部入仏 落慶式
「大聖人のおせられるのは、祈りは必ずかなう。それには時がある。良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そろわなければだめなのです。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります」 戸田指導