弾圧で信仰を捨て学会は壊滅!!
大御本尊から離れ、宗門厳護の力もなし。
「主要な会員の消息も、ほとんどわからなかった。出征中の者の消息も、疎開した教員たちの便りもなかった。」 
「彼等もまた、戦渦中、弾圧を受こ投獄された、二十数名中の者たちてある。遺憾ながら、投獄を機として退転レた幹部連であった。
彼等の中で、ある者は、御本尊を返却さえした。ある者は、学会と手を切って、出征することを条件に、釈放になったりした。幸運にも、投獄されなかった者もいた。しかし、彼等もまた、信心活動は、牢獄への道と知り、その恐怖から退転していったのである。彼等の全部が、大聖人の仏法を疑い、逼塞して終戦を迎えたのであった。要するに、最高幹部の理事たちが、全く退転してしまっていたのである。」(『人間革命』第1巻)
戸田は宗門を訪ね学会再建へ

昭和20年

1945.1.8
戸田 獄中で牧口の死を予審判事から告げられる
1945.3
池田 西糀谷から強制疎開。大田区西馬込の祖母を頼り転居
1945.5.24
池田家 空襲で消失。バラック小屋に居住
1945.6.17
日恭猊下 大石寺の庫裡・客殿の焼失の時、管長室において御遷化あそばされる。
「焼けただれた管長室には、第六十二世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔にみずから焼き、端座したままの姿であられたのである。しかも、正装であり、袈裟をかけたお姿である。そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵にむかっていた。猊下はお逃げになることは、いくらでもできたのである。
その証拠に、数百人の罹災者の中で、負傷者は一人もなかった。客殿の焼亡とともに、なにゆえに、わが身をお焼きになったのか。凡庸の推察は、さしひかえなければならない。彼(戸田)は、日恭猊下は一国謗法の苦を御一身にお受けなさったものと拝察した。ありがたいきわみではないか、と思った。」(『人間革命』第1巻)
1945.7.3
戸田城聖 豊多摩刑務所から出獄
1945.7.5
戸田 堀米御尊師にお詫び
戸田は中野・歓喜寮を訪ね、堀米御尊師(のちの日淳上人)に対して
「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)
 
池田 大田区大森南(森ヶ崎)に移転
1945.8.20 
日本正学館仮事務所設置(品川・上大崎)
 
池田氏 旧制東洋商業学校(現・東洋商業高校)夜間部2年に編入学。新橋の昭文堂印刷に勤務
 
池田 大田区大森南(森ヶ崎)に移転
1945.10 
戸田 日本正学館設立(西神田)
 
牧口会長は摧尊入卑
野島>
 「あなたは牧口先生の1番弟子であり、私も第何番目かの弟子の1人である。弟子として、私は牧口先生の教えを忠実に守っていきたいし、また学会の正しい発展を願うことでは、敢えて人後に落ちない熱意を持っているつもりである。ところで先頃の学会の検挙のことを、あなたは一体どういうふうに考えているんですか、どうしてあの事件があんなに拡大し、あんなに長引き、そのあげくに、牧口先生の獄死ということになったのでしょうか。これについて、あなたは反省してみたことがありますか。(中略)
戸田> それは2通りに考えられると思いますよ。その一応は、学会が発迹顕本の時になっていたのだということ。それからもう1つ、二応としては、牧口先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように扱ったということ、御書に摧尊入卑という言葉がありまして、その摧尊入卑の罰とか罪とかいう言葉はないが、つまりそれに当たるのだと思う。学会の行き方としては、価値論から法華経へ、法華経から御本尊へというのでなければならないと思いますね」
(野島辰次=牧口門下で創価教育学会の理事を務めていた『我が心の遍歴』/『慧妙』H15.2.16)

昭和21年

1946.1.1
再建後初の第一回法華経講義 (総本山大石寺において)
1946.1.10
池田氏の三兄・開造 復員
 
池田 昭文堂印刷に入社
1946.2.21 
讃岐本門寺は二月二一日に貫首・相馬日鳳師が僧俗会議を開いて日蓮正宗への帰一を決める
1946.3頃 
創価教育学会を「創価学会」と改称し再建
価値論を用いた折伏から生命論を用いた折伏に転換
1946.4.11 
「宗教法人日蓮正宗」を設立登記
1946.4.12 
宗門が讃岐法華寺・同10ヶ寺を帰一
1946.4.30 
日蓮正宗関係資料を連合軍総司令部へ提出
1946.5.1 
創価学会第1回幹部会(学会本部)
綱領、規約などを決定。本部に4人の理事、総務、教学、財務、企画、情報、婦人、厚生、青少年の9部門を設置。東京に10、地方に5支部の設置を決定。
1946.5.15 
宗門 機関紙「宗報」復刊
1946.5.22 
創価学会第2回幹部会(学会本部)
1946.6.1 
『価値創造』復刊
1946.7.11 
讃岐本門寺において本末11ヶ寺帰一奉告法要
1946.8.17 
池田氏の四兄・清信 復員
1946.9.20 
池田氏の二兄・増雄 復員
1946.11.5-6 
御会式(本山)
講頭会において戸田発言 「世間的に有名な信者を会長なり総講頭なりにして、寺院教会から離れて活躍すべきです」(『宗報』第13号)
1946.11.17
牧口の三回忌法要
創価学会第1回本部総会(東京・神田の教育会館)
1946.12.25 
日達御尊師 庶務部長就任
1946.12.26 
日昇上人 管長となる
 
戸田「出版用紙詐欺事件」
一九四六・一二・二六( 昭和二十一年十二月二十六日―著者) 戸田甚一  用紙代金弁明  返信保留 
という事務処理をすると同時に、その処理用紙の欄外には、わざわざ、「戸田氏、世間師(ペテン師)の正体を現す。不快。返信無用」と記入されている。

C・I・C(米軍特務機関)の供述・調査書
① 思想的には、国粋主義者であるが、軍部や官憲には反抗的であり、事業意欲旺盛だが、何一つ成功したものはないと述べる。
② 狂信的な仏教団体を指導するが、本人はすべて計算ずくで動くタイプだから、ことさらその信仰に狂信的であることはないと述べる。
③ 共産主義に対する態度(本人は共産主義は受け入れられないし、性格的にも大変に嫌いだと言う)
④ 酒くせがが悪く女くせも悪く友人間の信用もない。(酒くせがあり、おんなのクセも悪い。金にもルーズで多くの友人が迷惑している)
(邪教集団・創価学会 室生忠・隈部大蔵著)

昭和22年

1947.1.7
日満・日昇座替式
1947.3
池田氏 東洋商業学校卒業。昭文堂を退社し、蒲田工業会に勤務
1947.5.30 
池田氏の長兄・喜一 戦死の報告届く
1947.7.18 
日満 法を日昇へ付す
1947.8.14 
池田氏 創価学会の座談会に参加 (蒲田・三宅宅)
「貴方に初めて会ったのは昭和二十二年のことでした。戸田城聖先生( 創価学会第二代会長)が主宰されていた座談会に、キミは女友達に連れられて参加したのでした。
キミがその席で、『天皇制をどうすべきか』と質問したのが、つい昨日のことのように思われます。ただ、あの日、キミは途中で帰ってしまった。礼儀を知らん奴だな、というのが、キミの第一印象でした。」(『池田創価学会を解散させよ』龍年光)
1947.8.24 
池田大作氏、日蓮正宗に入信
池田氏の当時の心境
「三十分間ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しつけました」、また「家に帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、その時思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました
(小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)

「堀米日淳(日蓮正宗 第六十五世法主)師からよく聞かされたものだが、池田の御授戒は日淳師が住職をしていた中野の観喜寮でだったんですね。池田は小平に連れられて来たが、御授戒だけは受けたものの御本尊を受けるのはどうしても嫌だという。日淳師は仕方なく小平に持たせ、そのうち池田の気が変わるだろうからといったそうです」(『池田大作権力者の構造』創価学会我孫子支部参与の瀬尾正吉談)

池田大作氏とのデートと「恋文」
 そんな青春時代に、入会前の池田大作氏との出会いがあります。姉の同級生だった大作氏とその友人が、学会の拠点となっていた私の家にワイシャツ姿で現われたのです。その後も度々、わが家を訪れる姿を見かけていました。
 そのうち、私のどこを好ましく感じたのか、デートに誘われるようになりました。私は忙しい仕事と学会活動を熱心にしていたので、お付き合いをする時間はほとんどなかったと記憶していますが、映画館ヘー緒に行ったのは覚えています。大作氏は、私のようなキャリアウーマンタイプに強い関心と憧れを持っていたように感じます。
 私は、少女時代から男勝りの性格だったので、大作氏のようなアクの強いタイプは好きではありません。育った環境も、私と大作氏とではまるで別世界でした。常に距離を置いている私の態度に業を煮やしたのか、ある日手紙が届けられました。その中にラブレターと思われる内容が含まれ、それが数年前に「池田大作の恋文」としてマスコミを騒がせたものです。
 当時私の母は、頻繁に来宅する大作氏をたいそう可愛がり、着物姿の正装で戸田先生の会社へ連れて行って、大作氏の就職を直接頼んでいました。その結果、戸田先生の会社に採用となり、社員として勤めることになりました。そんな母の尽力に対し、私が知る限り御礼らしき言動は一度も聞いたことがありません。
 また、小説人間革命の入信決意の描写は、事実とは異なります。座談会で詩を諳んじたというのも、全くのフィクションそのものです。私は生き証人です。(三宅妙子さん証言『サヨナラ私の池田大作一女たちの決別』)

池田氏は同級生の三宅妙子さんの姉に誘われ、三宅家で行われている座談会に出席したことから学会との出会いが始まる。 学会活動家の家庭では家族全員が学会に入ることが常識だが、池田氏は親兄弟を半分(すぐ上の兄だけが活動家、その他の親戚は、母一の死後入会)ほどしか折伏できておらず、特に父親は熱心な真言密教の信者で入会を拒否。また、個人折伏が得意でなかったことを、一緒に折伏しに歩いた経験がある藤原行正氏がのちに暴露している。
1947.9 
池田 蒲田工業会に入社

東京大学南原繁総長「人間革命」について講演
「『人間革命』という言葉は、そもそも戦後、東京大学総長南原繁が卒業式の演説で述べた言葉であった。昭和二十二年(一九四七)の九月の東大卒業式で、南原は、『人間革命と第二産業革命』と題する講演を行ない、敗戦後の混乱のなかで、人間そのものの革命、『人間革命』が成しとげられねばならないと説いた。戸田はさっそくこの言葉を借用したわけである。」(『戸田城聖』177ページ)
 1947.10.19
創価学会第2回総会
日蓮正宗を除いては真の仏教はないということは、文証について、理証について、わたくしの常に説くところであり、諸君が常に現証について、よく体験せられているところであります」 「けっして、信仰や折伏を、自分の金もうけや都合に利用してはならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは、けっしてでき得ないので、世にいう悪などということの何千倍の悪であります。学会は名誉のためにも、金もうけのためにも、寄附をもらうためにも、動いてはならないのであります」(戸田城聖先生講演集上)

宗門の予算
「昭和二十二年度の予算は僅かに六万三千七百円、町の八百屋さんの今度の所得税にすら、たらない金額で一年間宗門を運営していくのであるから、余り大したことは望めないが実質主義で行く」(『宗報』第18号)

昭和23年

1948.1
「冒険少年」創刊
1948.1.22
日淳師宗務総監に就任  
1948.3
池田氏 東洋商業学校を卒業
1948.4
池田氏 大世学院(現・富士短期大学)政経科夜間部に入学
1948.9
「冒険少年」から「少年日本」に改題 (10月25日休刊決定)
1948.11.1
ポルノ誌『ルビー』を刊行(翌年9月休刊)。 → 翌年発行される『大白蓮華』にも広告を掲載する。 【画像】➡
1948.11.12
総本山大規模な復興寄付 
各地の寺院・法華講から250万円、創価学会も20万円余

戸田の法華経講義を聞かなかった池田大作
「昭和二十三年から約二年間、私は神奈川県の平塚市から東京・神田の戸田先生の事務所まで、毎週、月、水、金、夜六時から先生の法華経の講義を聞きに通ったが、これもその一例である。しかし池田は、戸田先生の事業を手伝っているからという理由で、勉強会にはほとんど顔を出さなかった。」(『池田創価学会を解散させよ』龍年光)

昭和24年

1949.1
『宗報』新年号  
「終戦後、宗門の第一懸案であった寺院教会の復興事業【この事業は昭和24年3月15日をもつて完了】も一通りでき上ったことになりました。いよいよこれからは宗門本来の布教に全力を傾注し勇猛精進しなければならないと考えます。宗門人の総奮起を御願申上ます」(堀米総監)
「宗門は総力を挙げて堅実なる教化運動を展開し、寺院教会講中は勿論個々の一信徒に至るまで日蓮正宗を名乗るものは宗祖の弟子檀那たるの自覚に、自他の折伏行に突入することを要請する」(教学部長・早瀬道応師)
1949.1.3
池田氏(21) 戸田の経営するする日本正学館に入社。少年雑誌の編集に携わる。
1949.1.5
池田氏 大田区中央(大森・新井宿)のアパート「青葉荘」に移転 池田 

『冒険少年』の編集長となる
1949.3.29
宗門は12名の全国法華講大講頭を任命。戸田城聖もこの時、任命を受ける。
1949.4.1
日蓮正宗布教教会設置
1949.7.10
機関誌『大白蓮華』発刊  
池田 『大白蓮華』に池田伸一郎のペンネームで「若人に期す」を寄稿
1949.8.16
「宗報」を大日蓮と改称
1949.10.1 
日本正学館倒産
1949.10.24
創価学会第4回総会
「日蓮大聖人様から六百余年、法燈連綿と正しく続いた宗教が、日蓮正宗である。」
「大聖人様のご出世は、われわれのごとき無智な悪人に、大御本尊様を拝ましてやるという一大因縁なのである」「わたくしたちは、無智な人々をみちびく車屋である。迷っている人々があれば、車にのせて、大御本尊様の御もとへ案内して行くのが、学会の唯一の使命である」(「戸田城聖先生講演集上」大御本尊様への車引きから )
この時、学会を財団法人にする決議を行う。
1949.10.25 
『少年日本』休刊決定
1949.10.27 
第一回総合座談会(品川・妙光寺)
1949.12.4
学会幹部社員、池田氏らは小口金融・東京建設信用組合に移動

昭和25年

1950.8.10
久遠元初の自受用身のご当体であらせられる大聖人の御肉体が、そのまま大御本尊であらせられるのである」 (戸田会長『凡夫と御本尊』)
1950.8.22
「われわれ末代凡夫の悟りは、大聖人のお悟りを悟りとしなければならないのであるが、とうていおよぶことができないのである」(戸田会長『三種の悟り』)
1950.8.23
東京建設信用組合が大蔵省から営業停止
戸田は その影響がおよばないように、創価学会の理事長職を辞任する。
1950.9-23
日昇猊下 九州地方巡教
1950.10
戸田 手形割引などを行う高利貸し業の大蔵商事(現・日章)を設立し、顧問に就任
この高利貸し業は、学会組織をフルに利用し融資を募る。営業部長に若くして就任し、池田氏の唯一仕事で成功を収めたのはこの高利貸し業だった。現在の額で、200万円ほどの給料を得ている。部下には、中西治雄、吉田顕之助らの学会幹部がいた。
1950.11.12
牧口初代会長7回忌法要
先生の生命は永遠です。先生がいま、どこにいられるか。猊下の御導師により、門弟らがともどもに唱える題目、先生はこの仏事につながれております。ここは寂光土です。先生の生命は。こつぜんとしてここにあらわれております。(昭和25 年11 月12 日 東京神田・教育会館 戸田あいさつ)
1950.11.27
池田 大蔵商事営業部長に


書籍紹介ほか

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◆参院選・東京選挙区に学会員が立候補!!
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