昭和44年
- 1969.1.7
- 妙信講 700名登山(S39.8.19以後)
- 1969.1.22
- 第20回社長会〔於留園〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.2.18
- 宗務院×妙信講(法道院において)
阿部教学部長 「猊下は正本堂を事の戒壇と述べられていない」 - 1969.2.19
- 第21回社長会〔於プチモンド〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.3.8
- 妙信講の正本堂御供養を正式受理
S40.10.7に拒否されていた正本堂御供養を宗務院は正式受理 - 1969.3.16
- 広布流布大願成就祈念勤行会開始
- 1969.3.19
- 第22回社長会〔於つくし〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.4
- 目的は天下取り
「天下を盗ろう、それまでがんばろう。今まで諸君を困らせたり、学会をなめ、いじめてきた連中に挑戦して、最後に天下を盗って、今までよくも私をいじめたか、弱い者をいじめたか、ということを天下に宣言しようではないか。それまで戦おう」(前進4月号) - 1969.4.17
- 第23回社長会[柳光亭] 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.5.3
- 日蓮聖人展
「今回の日蓮聖人展が、国民大衆に大いなる啓もうの役を果たしていただきたく、深く期待している次第であります。・・日蓮正宗大石寺では、今回の聖人展に、七百年来の伝統を破って門外不出の御書数点を出品されました。大事な「秘すべし秘すべし」の法門も、今日広布流布の時代を迎えて、いよいよ山外に出る事になったわけです・・・」『中外日報』辻武寿 - 1969.5.5
- 第24回社長会〔於松野茶屋〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.5.12
- 妙信講 日蓮聖人展出展中止訴え
妙信講は宗務院、学会へ日興上人御影出展中止を訴える。 5/18、5/21、6/18にも再度訴えた - 1969.5.31
- 池田氏 公明の審議反発を抑え自民に軟化姿勢とる
- 1969.6.1
- 臨時社長会〔満月開店記念〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.6.9
- 第25回社長会 〔於伊豆長岡・三養荘〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.6.22
- 新学生同盟結成
この年、 学生部に新学生同盟が結成。池田のヘルメットを被り出陣。昭和55年に解散 - 1969.7.13
- 練馬区投票所襲撃事件 東京都議会議員選挙
東京・練馬区の選挙投票所(豊玉第2小)において、投票終了時間後に訪れた2人が投票できなかったことを理由に、市川雄一(元・参謀室長、元公明党書記長・代議士)を首謀者に百数十人の学会員が投票所を取り囲んで襲撃、女性・高齢者を含む投票立会人4人に集団暴行を加えて流血させた事件。
昭和四十四七月十三日、東京都議会選挙投票日の当日、練馬区第四投票所にあてられた豊玉第二小学校で、事件は発生した。
午後六時の投票締切時刻数分過ぎに男女の二人連れが投票所に来て投票させるよう求めた。選挙管理委員会の立会人は、「投票時間をすぎ、投票所は閉鎖され、投票箱には、既に鍵がかかっているから」と、法律を盾にこれを拒否した。二人は、一度は立ち去ったが、すぐに十数人の仲間とともに押しかけ、選管の職員達と口論になった。公明党代議士(当時)伊藤惣助丸の秘書だと名乗る男らをふくむ群集は数十名の規模に増え、投票所内に乱入して、選管の委員を押し倒し、なぐるけるの暴行を加え、全員を土下座させ、謝罪を要求した。群集はいうまでもなく全員創価学会員であった。
こうした騒乱状態は午後十時ごろまでつづき、この間、群集は指揮者を中心に気勢をあげたり、「お前はもういいかげん長生きしたんだから、ここらで死んでもいいだろう……」などと脅迫をつづけた。(平成6年新年号 文藝春秋)
- 1969.7.21
- 第26回社長会 〔於三崎会館〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.8.15
- 第27回社長会 (於松山) 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1969.8.21
- 世界連邦身延大会に公明党参加申込み
(仏教各宗派、神道、キリスト教等の代表が身延に集まる集会) - 1969.9.8
- 第28回社長会〔於ホテル大倉〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 創価学会の銀行預金高
三菱銀行220億円、三菱信託銀行50億円、富士銀行60億円など総額553億円に上ると推定(44年9月末現在、某有力銀行『宗教法人の預金調べ』、木谷八士『疑惑のなかの公明党』) - 1969.10.10
- 第29回社長会〔於松野茶屋〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.10.12
- 正本堂定礎式
- 1969.11.10
- 藤原弘達『創価学会を斬る』を発刊
- 池田会長「学会を大きくしてがっちり固めたら、いよいよオレは政界入りする。その時には公明党委員長じゃなく公明党総裁に変えてやろうじゃないか」語る。
- 1969.11.23
- 第30回社長会〔於芝・松山〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1969.12.13
- NHKに出演した共産党・松本善明が藤原弘達、内藤國夫氏の著書に対する出版妨害を創価学会、公明党が行っていると告発。
言論出版妨害事件
藤原弘達氏 著書「創価学会を斬る」の出版をめぐって学会がそれを妨害した事件が起こり国会でも論争を呼ぶ。 藤原弘達氏へ直接交渉にあたった藤原行正氏、秋谷栄之助氏がその内容をテープに隠し撮りされる。また、全国の会員に非難の手紙を書かせ送りつける嫌がらせ行為を行う。また、潮出版幹部・池田克也から大手取次ぎ各社、大手書店に圧力を与える。さらに、公明党・竹入から田中角栄幹事長に事態収拾を依頼する。 藤原氏と田中氏の交渉の場である赤坂の料亭で、池田会長と竹入委員長が盗み聞きしていたところを仲居さんに目撃され、サンケイ新聞記者の俵孝太郎に公表される。 「創価学会を斬る」はこのような、問題が世間に大きな話題となったことで結果的に100万部を超える大ベストセラーとなる。
この事件を受け、国会では池田大作氏の喚問を動議。それを阻止するため、公明国会議員が連日、与野党の議員を赤坂のクラブ「石丸」などに接待漬けに没頭する。
➡言論妨害事件について池田会長は日経新聞に連載の「私の履歴書」の中で、自ら指示して起きたことを隠し しらじらしいウソを掲載。 「私が一歩引いたときに極めて予想外のところから事件がおきてきた、これが言論問題である。私は、事の真相が初めわからなかった。よくよくその本質を追求していったときに、これは創価学会の体質かかわることであることを知った」 - 1969.12.27
- 公明 衆院選で47議席、第三党に
東京八区・中川嘉美を支援する活動家が「対立候補者・山田久就が脳溢血で死んだ」とデマを流し虚偽事項公表罪で逮捕。
昭和45年
- 1970.1.5
- 副会長制設置。北条浩、森田一哉、秋谷栄之助が就任
- 1970.1.27
- 第31回社長会〔於いろは〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.1.28
- 会員世帯数750万世帯に
- 1970.2.3
- 反創価・公明集会に3000人
「公明党・創価学会の妨害に反対する、言論・出版の自由に関する大集会」には3千人が集まった。全国各地でも、言論・出版の自由を守る懇談会が結成 - 1970.2.9
五木寛之、生島治郎、戸川昌子、野坂昭如ら著名作家七人は「出版妨害問題が解決するまで、創価学会系とみられる出版物、雑誌に取材・執筆を自発的にさし控える」旨コメント。- 1970.2.27
- 第32回社長会〔於箱根研修所〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.2.28
- 塚本三郎(民社) 池田氏を証人喚問要求
- 1970.3.9
- 谷口議員の質問に対するに関する衆議院予算委員会答弁
- 1970.3.17
- 社・共・民の有志議員「出版妨害問題真相究明議員集会」開く
- 1970.3.25
- 妙信講 「正本堂につき宗務御当局に糾し訴う」を送る。
- 1970.2.29
- 第33回社長会 〔於箱根研修所〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.4.3
- 浅井親子を本山に呼び御指南
「国立戒壇は当然、正本堂は御遺命の戒壇ならず、これこそ宗門の伝統法義。聖人展の時も率直に言ってくれたのは妙信講である。妙信講こそ私を守ってくれる講中である」 - 1970.4.8
- 共産党・谷口善太郎議員 宗教団体の政治活動に関する質問主意書提出➡
創価学会出版局が昭和三十八年一月一日から翌年六月三十日までの間に、一億六千六百七十万八千二百八十円の政治献金を公明政治連盟に行なっている。(昭和三十八年十二月十二日官報号外八一号、昭和三十九年八月二十六日官報号外五一号、昭和四十年二月十三日官報号外九号掲載)
宗教団体が選挙に際し、選挙活動という政治動を主要な活動とするようなことは、宗教法人法第二条の規定にてらして宗教団体の目的からの重大な逸脱とみなすべきではないか。 - 1970.4.9
- 政府 「国立戒壇の意義」について学会に照会する。
- 1970.4.16
- 常泉寺に浅井親子を呼び御指南
谷口氏の質問主意書を見せ 「国立戒壇を言えば宗門はつぶされる。国立戒壇と言わないでほしい」 妙信講反論説得。猊下学会説得を約束。 - 1970.4.17
- 猊下 浅井昭衛に電話
1.日蓮正宗を国教にしない。 2.国立戒壇といわない。 3.正本堂を最終の事の戒壇とする。 4.今や広布流布、故に事の戒壇が立つ。 以上を5月3日に発表する。こうしなければ宗門を統率できないと御指南。 妙信講反論。 - 1970.4.19
- 猊下 浅井昭衛に電話
4.17の内容の内「国立戒壇といわない」ことだけは宣言しなければならないと御指南。 妙信講不承知。 - 1970.4.18
- 赤坂芸者との関係記事掲載
4/18号・週刊新潮は池田と赤坂芸者との関係を掲載。 これに対し、学会側は告訴の動きを見せたが、新潮側が「それなら国会議員の女性との問題を取り上げる」と反撃したため告訴を断念。 - 1970.4.22
- 宗門 臨時局懇談会開催
- 1970.4.24
- 浅井昭衛 法道院に森田副会長を呼ぶ
「5月3日の総会に猊下に正本堂を事の戒壇といわせないよう」 森田副会長これを約束 - 1970.4.28
- 谷口議員の質問に対する衆議院予算委員会答弁 ➡
一、本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となつたとき、信者の総意と供養によつて建てられるべきものである。
二、既に現在、信徒八百万人の参加によつて、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行なわれており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。
三、一時、本門戒壇を”国立戒壇”と呼称したことがあったが、本意は一で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであつて、国家権力とは無関係である。
- 1970.5
- 御遺命の戒壇達成と報じる
「時を待つ可きのみと託された本門戒壇の建立は、正本堂の完成をもって成就することになる。」(昭和45年5月号 大白蓮華) - 1970.5.3
- 池田会長言論出版妨害事件について釈明 第33回本部総会 (日大講堂)
「今度の問題は『正しく理解してほしい』という、極めて単純な動機から発したものであり、個人の熱情からの交渉であったと思う。ゆえに言論妨害という陰湿な意図はまったくなかったのでありますが、結果として、これらの言動が全て言論妨害と受け取られ、関係者の方々に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまったことは、まことに申しわけなく、残念でなりません」 その後「どうですか、私が辞めてよろしいと思う人?手を挙げてください」
日達猊下 本部総会において今後、国立戒壇の名称を使わないようご指南 「国立戒壇の名称は布教の邪魔。本門戒壇安置の所は事の戒壇。正本堂は事の戒壇」
【学会と公明党の関係】
私としては、公明党結成のことを発表した昭和三十九年の本部総会の講演でも、創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体である、とはっきり政教分離の出発を目指しておきました。 私自身、公明党の会合には一度も出ておりません。三十九年の結党大会にも出ていません。 また四十年七月に「宗教政党」という理念を述べましたが、ここでも「理念においては一体であるが、体制・機能においては別である」むねを前提として、そう申し上げたのであります。 これは、学会と公明党は「一体不二」であるという言葉を使ったので、 一部に誤解した受け取り方をされておりますが、よく読んでいただければわかるように、民衆の幸福と平和を願う理念。理想が同じであるという意味であって、体制・機能の面までも「一体不二」ということは決していっておりません。 「また、学会は、公明党の支持団体ということになります。当然、学会員の個人個人の政党支持は、従来通り自由であります。学会は、日蓮大聖人の仏法、三大秘法の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については、会員の自由意思にまかせ、全く干渉するものではありません。」 - 1970.5.5
- 第34回社長会〔於箱根研修所〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.5.16
- 池田氏 政教分離を認める
- 1970.5.31
- 第13回寺族同心会
「5月3日創価学会の本部総会が行われました。その席で今日以後、私の方、日蓮正宗では国立戒壇という名称は使わないという事を私は申しました。・・・国立戒壇という名前を使わなかったといっても、決して三大秘法の戒壇の御文、あるいは一期弘法抄の戒壇の御文に少しもそれを否定したり謗ったり、あるいは不敬になる様な事は少しもないのでございます。・・・三大秘法・一期弘法抄にいう処の戒壇は理想の大戒壇である。それは望ましい戒壇である・・・」 - 1970.6.9
- 公明党新綱領 王仏冥合の文字消える
- 1970.6.11
- 学会、妙信講 猊下にお目通り
森田副会長、今後は正本堂を御遺命の戒壇とはいわない旨、誓う。 確認書は拒否。6.16、6.30、7.23 確認書をめぐり論判 - 1970.6.18
- 第35回社長会〔於箱根・松野茶屋〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社) - 1970.6.25
- 公明党大会『政教分離』を決定
- 1970.7
- 最高権力者になることが目的
「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい」(『現代』昭和45年7月号) - 1970.7.24
- 第36回社長会[於三崎会館] 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.8.4
- 聖教新聞社説に「正本堂を本門戒壇」と掲載
- 1970.8.6
- 妙信講 聖教の違約に対して、文書にて批判。確認書請求。
- 1970.8.19
- 妙信講 学会に面談
違約を責め確認書要求。作成誓う。
- 1970.9.10
- 第37回社長会〔於いろは〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.9.11
- 「正本堂を御遺命の戒壇といわない」
確認書に学会、妙信講署名。総監の手から猊下へ。 - 1970.9.29
- 第38回社長会 〔於松野茶屋〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.9.30
- 第1回全国登山責任者会開催(本山)
「・・・総講頭職は受けたくなかった。しかし、猊下のたっての御命でありお受けした次第であります。41年春には辞表を奉呈しましたが猊下より・・再三にわたり・・。私も一日も早く一ヶ月おうち半月は総本山に滞在し会員ならび信徒と会い・・・総本山を守りたいとの念願を持っておる昨今でございます。終わりに「あな嬉し 永遠の故郷 大石寺」との一句・・・」 「日蓮大聖人亡きあとも、この精神は変わらず、二祖日興上人を慕って、多くの信徒が訪れ、日興上人にお目通りするとともに、信仰の根本の御本尊として、本門戒壇の大御本尊にお目通りした。」
【登山会の意義】
次に、登山会の意義について申し上げたい。私どもにとって、信仰の根本の対象は、いつまでもなく本門戒壇の大御本尊である。その大御本尊にお目通りすることが、登山会の最も大事な目的であり、意義である。 - 1970.10.8
- 東京文化祭(国立競技場)
- 1970.10.12
- 正本堂上棟式
- 1970.10.25
- 妙信講 登山許される。(2千有余名)
- 1970.10.28
- 第39回社長会 〔於箱根研修所〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.11.19
- 第40回社長会〔於ホテルオータニ〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.11.22
- 第41回社長会 〔於天満寿〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1970.12.28
- 第42回社長会 〔於小島宅〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
昭和46年
- 1971.1.15
- 第一回教学部大会(聖教新聞社)
教学部師範10名が任命
- 1971.1.19
- 第43回社長会〔於松野茶屋〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1971.1.26
- 第44回社長会〔於羽吹宅〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社)
正本堂で集めた本当の金額
正本堂御供養は355億円以外に100億円集めていたことを明かす。 - 1971.2
- 創価学会財務規程
第一条(財務部員)
創価学会の広宣流布の活動ならびに運営の費用に充てるための財務費を納入する会員を財務部員とする。第二条(任命基準)
財務部員は、会員の希望者の中から次の基準にもとづいて選任する。
1.入信一年以上で、信心の確かな者。
2.経済的に余裕のあることを認められる者。
3.原則として満二十歳以上の者。
(『前進』1971年2月号) - 1971.2.3
- 聖教新聞 人間革命執筆につき池田氏コメント
「ともあれ、執筆にあたって、今までも多くの方々にご協力を戴く。……特に、私を激励してくれたS氏に至っては、資料の収集は勿論のこと、文体の運び方、文章の調子、結構の仕組みまでご協力を戴き、感謝の言葉もない。益々のご協力をただ乞う。」 S氏とはゴーストライターで学会幹部・篠原善太郎のこと - 1971.2.16
- 「来年は本門戒壇が建立される」聖教新聞
- 1971.2.16
- 第45回社長会〔於北海道・いく代〕 池田発言
(社長会全記録 継命新聞社)
- 1971.3.10
- 第一回 金剛会総会 (社長会を発展させたグループ)
東西哲学書院、日本図書輸送、創造社、ひさご印刷、鳳書院、東洋物産、栄光建設、白蓮社の合計八社 「いままで言えなかったが、本当は違うんだよ。外郭が源氏で、創価学会本部や聖教新聞は平家でいつかは滅びる。源氏がやがてリードする時がくる。」昭和四十六年三月十日 池田発言 - 1971.4.2
- 創価大学設立
開学当時は経済学部・法学部・文学部 - 1971.4.13
- 第46回社長会〔於東海研修所〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1971.4.28
- 昭和新定日蓮大聖人御書第3巻刊
- 1971.5.1
- 第47回社長会〔於東海研修所〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1971.5.3
- 第一回全国未来会
- 1971.5.30
- 第48回社長会〔於篠原宅〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1971.6.3
- 第49回社長会 〔於文化7階和室〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1971.6.27
- 参院選10名当選
- 1971.7.8
- 第50回社長会〔於八矢宅〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1971.7.27
- 第51回社長会〔於松野茶屋〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1971.7.29
- 「仏教三千年史上で未曾有の大偉業である正本堂が建立される」聖教新聞
- 1971.9.3
- 第52回社長会〔於松野茶屋〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
- 1971.9.12
- 民音職員・松本勝弥の妻尭美 学会を脱会
- 1971.9.17
- 東京文京区西片町に大石寺東京出張所を開設
- 1971.9.21
- 竹入公明党委員長 暴漢に襲われる
「事件を聞いた池田大作氏がこう発言したんです。竹入は育ちが悪いから、自分でドアを開けて車から出た。だから刺されたんだ、とね。この池田発言が入院中の竹入君の耳に入った。誰がいいに行ったか私は知っているが、これ以来、池田氏に寄せる竹入君の感情が冷めていったんですよ」(龍年光証言)(平成6年1月1-7日号 週刊ポスト) - 1971.10.12
- 正本堂躯体完成式
「正本堂は池田会長の「正本堂躯体完成表白」に述べられている様に円戒であり・・・円定(本門の本尊)、円 (本門の題目)は七百年前、日蓮大聖人の崇高な実践により建立顕示されているが円戒(本門の戒壇)はこれを後世の我々にお残しになられ・・・」聖教新聞社説 - 1971.10.13
- 第53回社長会〔於松野茶屋〕 池田発言 (社長会全記録 継命新聞社)
昭和47年
- 1972.1.4
- 「なお総本山におけるポスト正本堂の重要な整備の一環として一応昭和49年10月12日の落慶を目指し、新しい立派な富士学林を建設するようにご提案申し上げ御法主猊下より快諾をたまわりました事をこの席をお借りしてご報告申し上げます。」聖教新聞
- 1972.1.7
- 学会 題目を再び商標登録申請 【資料】➡
- 1972.2.13
- 宗務院から浅井呼び出し
学会との間の調停に乗り出す。 「正本堂現時点における戒壇である」で納得してもらいたい。不承知。 (2.24にも同様の調停) - 1972.3.10
- 金剛会第二回総会
席上「 」と電文が読みあげられた。 篠原幹事長(東西哲学書院社長)
一、我々各社の創立者は池田先生であること、即ち池田先生の御構想の会社である。
二、広宣流布の活動の一端であること。
東西哲学書院、日本図書輸送、創造社、ひさご印刷、鳳書院、東洋物産、栄光建設、白蓮社に潮出版社、東西印刷、ユニオン商事を加えた合計11社、433名
- 1972.3.16
- 新宿区に大願寺建立 信徒第一号に池田大作
- 1972.3.26
- 宗門 正本堂の意義について指導会開催
「正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時点における事の戒壇である」と御指南。 出席者:支院長、副支院長、宗会議員、指導教師。 更に御法主上人の御指南を文書にして全国法華講々頭。全国教師並事務取扱者に通達。 - 1972.4.16
- 宗務当局と浅井親子論判
- 1972.4.27
- 浅井 池田大作に公上対決申し込む
- 1972.5.5
- 池田 アーノルド・トインビーと対談
後の対談集は往復書簡形式で行われたものだが、書いたのは特別書籍メンバーによるもの。つまり、池田の偽装対談集ということになる。 出版に際しても、当初、博士が席を置くオックスフォード大学側は反対していたが、強引に押し切って学会が出版した。 - 宗門 妙信講に学会との公上対決撤回を要求
- 1972.6.6
- 学会 妙信講の文書配布停止を宗務院に訴える。
- 1972.6.15
- 宗門 妙信講へ最後通告
訓諭に敵対し、宗門並びに創価学会を誹謗中傷している。学会に対する公上対決討論撤回するよう。6月22日まで返事がなければ処分する。 - 1972.6
- 公明党代表団 北朝鮮を訪問
6/7付 公明新聞では「この国を本当に廃墟の中から革命思想によって立ち上がらせた、皆様の敬愛する金日成首相にお目にかかり」と賛美。【資料】➡ - 1972.6.22
- 妙信講 宗務院通告の回答
宗務当局こそその所行を恥と思え。真の道念あるなら訂正せよ。7月7日まで待つ。 - 1972.7.1
- 妙縁寺松本日仁師登山。猊下より呼び出し。
- 1972.7.6
- 猊下 妙縁寺御下向。 浅井親子に御指南。
- 1972.7
- 『大白蓮華』7月号 国立戒壇論の誤り全文掲載。
- 1972.7.19
- 浅井親子登山呼び出し。御指南。
正本堂は御遺命の戒壇でない旨、訓諭訂正の草稿披露。 - 1972.7.26
- 「池田先生が日本の指導者として立っていただく。」北条浩副会長発言・聖教新聞
- 1972.9.13
- 正本堂の意義をめぐり激論(以後6回 計17回)
東京・常泉寺で妙信講、学会(秋谷栄之助、原島嵩、山崎正友)が10時間に渡り激論。
1.正本堂が御遺命の戒壇であるとは現在においては断定しない。
2. 御遺命の戒壇が国立であるか否かは引き続き論議する。
3.「聖教新聞」に正本堂が御遺命の戒壇の「完結」ではないとの理事長(和泉覚)談話を掲載する。
との双方の一致を見せ、この内容は10月2日の聖教新聞に掲載される。
学会首脳が「正本堂は御遺命の戒壇ではない」との見解を発表したことに池田氏が激怒。 現会長である原田氏はこの当時、原島氏に「原島さんの言っていることは正しい」と賛同。 - 1972.10.1
- 正本堂落成(総本山大石寺)
日達上人並びに妙信講との交わした意向に反し、池田会長は福島副会長に命じ「本日、七百年前の日蓮大聖人ご遺命が達成されました。ありがとう」と、登山した会員に伝達する。 - 1972.10.3
- 聖教新聞「正本堂落慶の時を迎えて」
「大聖人の仏法は、本因妙の仏法である。全民衆を救おうとの大聖人の大精神に立つならば、現在は広布流布の一歩にすぎない。したがって、正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂をもって、何もかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広布流布は達成されたなどと言うことは誤りである。(中略)正本堂は広布流布のその日まで信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない」和泉覚理事長談話 - 1972.10.7
- 戒壇の大御本尊御遷座
- 1972.10.14
- 正本堂落慶大法要
- 宗門 韓国メンバーと本山で第一回目の会談
国内でバラバラとなっている組織を統一し「韓国・日蓮正宗仏教会」とするために協議。しかし、現在に至っても韓国組織はいくつもの団体・グループに分かれたまま。 - 1972.11.11
- 正本堂御供養返還裁判
民音((財)民主音楽協会)職員だった松本勝弥が正本堂御供養金返還訴訟を起こす。 - 1972.12.10
- 公明 衆院選で47→29議席に後退
昭和48年
- 1973.1.13
- 民音職員・松本勝弥を解雇
- 1973.2.19
- 難民救援募金を開始
- 学会・公明の連絡協議会を設置
- 1973.4
- 創価女子中学・高校を開学
創価学園中学の入学式において池田氏がスピーチ中、赤ん坊が泣き出したところ「うるさい!連れ出せ!」と怒鳴りつける事件が起こる。 - 1973.4.12
- 共産党と協調発言
「わたしは一貫して共産党のいうことを理解しておりました・・・未来において協調すべきだし、それしかないです」『週刊現代』4/12 - 1973.5.3
- 富士美術館開館
池田「世界一流の新聞社を目指せ」(聖教新聞 1973.5.3付) - 1973.7
- 学会 松本勝弥氏を盗聴
- 1973.7.8
- 都議選で26名当選
- 1973.7.13
- 学会 立正佼成会幹部に工作し「明日の佼成会を守る会」を結成させる
- 1973.7.26
- 連合会第十回総会(総本山塔の原グランド)
日達上人御指南
日女抄に「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(全集一二四四頁)とおおせになっております。しかしながら、一般日蓮宗の人々は、この胸中の肉団に御本尊がましますといぅ言葉を取って、大曼荼羅本尊は要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もおります。 しからば、何をもって自分自身の御本尊を見極め、崇めることができるでしょうか。我々凡夫においては到底そんなことはできないのであります。自分自身が御本尊だ、などと考える時は、既に増上慢に陥って、地獄の苦を受けるといぅことになるのであります。そこで大聖人様は御自身の当体を戒壇の御本尊として、我ら末法の衆生の依止の本尊と顕されておるのでございます。すなわち大聖人は「末法に来入して始めて此の仏像出現す」(全集二四八頁)と申され、御自身が仏としての姿を示され「経に云く猶多怨嫉・況滅度後と此の言良とに以有るなり」(全集二五四頁)として、また「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(同)とおおせられ御本尊を建立遊ばされておるのでぁあります。この御本尊は、我々の十界互具、一念三千の姿を書き顕わされたのでありますから、これが我々の正境でございます。我々凡夫は自らの顔すら見ることができません。しかし、鏡を境、すなわち対象として前に置いて見る時は、はじめて真実の自分の顔を見ることができるのであります。まして御本尊が我々の胸中肉団に在りと教わってみても、その御本尊を拝することはできないのであります。故に大聖人は、この我等の胸中の肉団の姿を、正境として御本尊に御図顕遊ばされておるのであります。 - 1973.8
- 日達上人から賜った「賞与御本尊」を放り投げる
正本堂建立の翌年、昭和48年日達上人はこの功績に対し「賞与御本尊」を下付された。その年、池田氏は創大体育館で行われた本部幹部会で出席者に見せびらかせ、「350億も御供養して、正本堂を建てたことに対して、紙切れ一枚で〝御苦労様〟だよ」と言って、御本尊をクルクルと巻いて第一庶務局員の前にポンと放り投げたという事件。 - 1973.9
- 公明党大会で「中道革新連合政権構想」を発表
- 1973.9.8
- 映画『人間革命』(東宝)が公開
- 大白蓮華9月号
第1回 在家仏教の開幕。
「・・・あえて言えば、僧俗ともに大聖人と直結なのです。各自の家にすべて御本尊様があられる。それが証明である。朝な夕な御本尊に直結する事ができる。寺院は授戒所といってよい。これを間違えると、往時の僧侶仏教に、寺本位の仏教に傾斜してしまい・・広布流布はできなくなってしまうであろう・・」
第2回 世界宗教の誕生。
「大聖人が生涯、一寺も持たれなかったということは、これまでの寺院の権威の座を、たたき破られたのだと私は思う・・・寺院が令法久住を忘れて形式や権威に堕せば、大聖人のご精神に反すると考えるべき・・・僧は信徒の為に懸命に尽くすことが第一義となろう・・・」 - 1973.9.21
- 財団法人 日蓮正宗妙観会設立許可
- 1973.10.14
- 池田氏 日達猊下に「金出せ」と面罵
昭和48年頃、御開扉の終わった後で、池田前会長と福島源次郎氏(当時副会長)が、猊下がお通りになった時、「(※日達上人が)今頃来やがった」とまず福島が言い、池田前会長は「○○億円出せ」「約束の金はどうした、早く出しなさい」と怒鳴ったという事件があった。猊下の気性から思えば、その時は気持ちの上でずいぶんと押えられたと思うが、その後、内事部へ来られて、『ああいう体質では、もう学会とは一緒にやっていけない。たとえ小さくなって日蓮正宗の信仰を守っていきたい』と悲痛な表情で仰せられたのである。(『暁鐘』20号)【資料➡】 - 1973.10.17
- 学会 「日蓮正宗国際センター」構想決定
- 1973.10.17
1.創価学会の多年に亙る広布創業の労に対し、宗門は満腔からの誠意を表しここに一金壱拾億円を贈る。
2.正本堂基金 370,600,000円については昭和49年4月以降、創価学会において自由に使用していただきたい。
3.富士宮市の市民センター建設に対する寄付要望については、大石寺として7億円を考える。
4.富士学林の建設は大石寺で行う。
以上。 【資料】➡- 1973.12.29
- 第2回御義口伝受講者大会
「実は、本門事の戒壇は正本堂という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の800万は、明確に終わった」
創価学会の重宝として「留言集」(池田氏の遺言)を残すことを話す。2千ページにも及ぶ細かなことまで記されているとされる。」 - 1973.12
- 学会 「丑寅勤行は各家庭で」との指導
昭和49年
- 1974.1.2
- 日達上人と学会幹部の集まりの席上、「富士宮付近で、正宗の僧侶が遊びほうけている」と池田氏が再び日達上人を叱り飛ばす。
- 1974.2.16
- 大聖人の再誕を吹聴
大聖人誕生の地を訪れ「確か、あの時もこのメンバーだったなあ」。そして境内の千年杉に対し「なつかしいなあ!」と自身を大聖人の再誕であることを側近に吹聴する。 この杉自体は大聖人入滅後の木であることから返ってニセ仏を証明することに。 - 1974.3
- 学会 墓地事業に進出
学会が、所管官庁の東京都に墓苑事業を申し出て、その許可を得る - 1974.3.19
- パナマ・ノリエガ将軍と初対談(パナマ)
- 1974.3.27
- 宗門 在勤式
「・・・今、我々はたいへん馬鹿にされておる。坊主、坊主といって馬鹿にされておる。馬鹿にしている人が正しいのか、馬鹿にされておるの我々が正しいのか一概には言えないでしょう。・・・」 - 1974.2
- 学会提案の 「日蓮正宗国際センター」構想、宗門と協議
学会が海外布教での主導権を握り、本山を傘下にする目的であったため猊下はこれを拒否 - 1974.4
- 『大白蓮華』4月号
「法華経を媒介としてご自身の境地を開き“生命”そのものに迫っていかれた」
「創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達にあります」
都内で太陽が二つに見える現象が観測
池田氏は八王子にある法忍寺を創価山立宗寺と名称を替えようとするが、日達上人は許さず池田が陳謝。 池田は学会幹部に「(日達上人は)俺に詫びさせた」と激怒。
- 1974.4.12
- 創価学会 宗門支配を画策(山崎・八尋報告書「本山の件」)
「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理していくかについて、二通り考えられます。 一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり向こう三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後をかためるという方法です。(中略) 本山、正宗は、党や大学、民音以上に学会にとっては存在価値のある外部と思われ、これを安定的にひきつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。(中略) そのための布石としては、
が必要です。これらのことは機会をとらえながら、さり気なく行うことが必要であり、今回のことは、一、二、三を確立し、さらに四までを確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度な判断によって決せられるべきと思いますので、ご決断を仰ぐ次第です。 」 - 1974.4.25
- 法華講登山
「御書に「天に二日無く、地に二王なし、一仏界、二尊の号なし」という事を、仰せになっております。・・・最近ある所では、新しい本仏が出来たような事を宣伝しておる・・・法華講の人は身を以てくい止めていただきたい・・・広布流布はしなければならん。けれども教義の誤った広布流布をしたら大変であります」日達猊下 - 1974.4.30
- 宗務院 総監×浅井 「国立戒壇いうなら登山不可」
- 1974.5.10
- 宗門からの分離独立を画策 (北条報告書「本山の件」)
9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。 広宣流布など全く考えていない。自分達の私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足、という風にしか考えられません。 学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いづれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。(北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1) - 『北条報告書』流出の経緯
当時学会顧問弁護士であった山崎正友氏は、学会の実態を知ってもらうべく内部資料を日顕猊下へ預けていた。この資料を山崎氏が返却を願った間に、後に正信会となった山口法興によってコピーされ、それらを告発した。 - 1974.5.27
- 学会は「僧宝」発言
「仏宝に三宝というものが説かれている。いうまでもなく仏法僧の三宝であるが、この僧宝が問題なのである。僧宝といっても僧侶を意味するものではなく、社会の中で実践し「法」を正しく伝持する人々のことである。・・今日における僧宝・・創価学会があるのであり・・和合僧なのである。」 聖教新聞 「名字の言」 - 1974.5.29
- 第一次訪中 ~6/16まで
- 1974.5.29
- 宗門 学会×妙信講の公開討論禁止の返事(学会へ文書)
- 1974.6.18
- 宗門からの分離独立を画策 (北条報告書「宗門の件」)
広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申上ることは洵(まこと)に残念なことであり、且つ申訳ない限りでありますが、報告を怠ってご判断をあやまらせてはより以上重大なことと思い、中西、秋谷、山友と相談の上、ご報告申上ます。また私たちなりに検討しました対策もしたためますので、ご指示賜りたく、その上で、私どもいかなる事なりとも闘う所存です。かねて先生の仰言(おっしゃ)っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いづれにしても私たちは断乎たたかいぬく決心です。 G(※猊下)の心理は、一時的なものではない・・・長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。本質は、カトリックとプロテスタントのような違いである。戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて・・・当面Gの異状心理をしづめ、新しい進路を開きたいと考えます。但し、やる時がきたら、徹底的に闘いたいと思います。 - 1974.6.18
- 日達猊下 学林研究科開講あいさつ
「・・この辺でも最近、ある書が御書だという事を盛んに言われてきております・・又、誰れ誰れが仏であるという言葉も、この近所で聞かれる・・日蓮正宗の御本尊を拝するならば、日蓮正宗の教義に従って、信心していかなければならない・・それに反することを聞くならば、どこまでもこれを破折して、日蓮正宗の信徒を養成していかなければならない、それが僧侶としての義務であります。・・日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは広布流布とはいえない・・」 - 1974.7.7
- 参院選14名当選
- 1974.8.4
- 学会 九州・久留米・水天宮カッパ祭 邪宗と共に参加。
- 1974.8.12
- 宗門 妙信講解散命令発布
- 1974.9.2
- 宗門と学会連絡会議(板御本尊御下附の件)
池田 ニセ本尊作り開始
学会側から紙幅の御本尊を板御本尊にしたいとの伺いを申し立てる。それに対し、宗門側は「いいでしょう」との約束であったが、真意は宗門側が紙幅御本尊を払い下げるとともに新たに板御本尊を御下附するというものであった。 しかし、この時までに既に少なくとも一体の模刻本尊を学会は製作済み。 - 1974.9.13
- 妙信講に日蓮正宗の名を使用付加を要求
- 1974.9.28
- 妙信講本部の御本尊返還要求(21日にも再び)
- 1974.10.4
- 妙信講乱闘(学会本部にて)
- 1974.10.13
- 妙信講 御会式 (八木直道師出席)
- 1974.10.15
- 八木直道師擯斥処分
- 1974.10.28
- 池田 パナマ・ノリエガ将軍と2度目の対談(聖教新聞社)
- 1974.10.29
- 代表役員 池田から北条浩に
- 1974.11.13
- 学会 妙信講と裁判開始 52年4月に学会訴訟取り下げ
- 1974.12.1
- 宗門「元妙信講等処分の経過」 『妙縁寺住職の交代について』のパンフレット発行
- 1974.12.2
- 第二次訪ソ ~12/6まで
- 1974.12.3
- 大蔵商事→大同商事→株式会社日章に変更 保険代理業務などが主業務。
- 1974.12.5
- 中国・周恩来首相と会見
- 1974.12.25
- 宗門 松本日仁師擯斥処分にする
- 1974.12.28
- 創共協定結ぶ
秋谷栄之助(当時副会長)は協定は「共闘なき共存」を定めたものだとして、協定にある「協議」や「協調」の精神を否定した。 第二条「創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度を取らない」➡
➡ 池田はこの直後「宮本顕治より私の方が長生きする。これは私の勝ちだ。いまごろ、代々木は乾杯しているぞ。バカな奴らだ」と漏らす。 - この年、特別財務をスタート
「それぞれの地域に相応しい会館を建てる」との名目で実施
昭和50年
- 1975.1.1
- 池田による本部 模刻本尊入仏式
この前後に、学会側で製作が了解されるはずの無い八体の模刻本尊がつくられる。 後日、宗門にこのことが発覚し、50年10月23日、当時総監であった法道院・早瀬日慈御尊能化を学会本部にお迎えし、模刻本尊の入仏法要。他の七体の本尊は宗門に保管された。しかし、御守御本尊やこの八体以外に板御本尊が存在したとの目撃情報もある。【資料】➡
- 1975.1.4
- 閉眼した御本尊を安置
『聖教新聞』
「これまでの紙幅御本尊(模刻した元の御本尊)は、学会の重宝として永久に保存されることになった」と報じた。 しかし、この学会本部常住の紙幅御本尊は模刻の2年後、再び表に出ることになる。
昭和52年4月27日、名古屋文化会館において池田は、 「私の心境や歴史的な意義を含めて、中部の同志にはこれから創価学会の真実の歴史を作ってさし上げたい。そういう発露から本部の御本尊をご安置申し上げたことを知っていただきたい」
閉眼して秘蔵された御本尊を再び、池田の入仏式によって開眼(?)されたのである。 同じ御本尊が紙幅のものと板御本尊の2体が同時に祀られた瞬間である。 - 1975.1.10
- 核廃絶1000万名署名を国連事務総長に提出
- 1975.1.26
- 創価学会インターナショナル(SGI)発足
グァムで「第一回世界平和会議」。のちにSGIの日となる。猊下御出席。 - 1975.3.1
- 第二代法華講連合会委員長に佐藤悦三郎氏就任
- 1975.3.26
- 院達2509 早瀬日慈師総監復帰。 阿部信雄師総監代務退任。
- 1975.4
- 大白蓮華4月号
学会に「入会」の文字
総務室長・辻武寿の言葉にはじめて入会の文字が使用され以後、入信と入会が混じるようになる。 - 1975.5.3
- 「伸一会」発足
中心メンバーに野崎勲、原田稔。宗門の「妙観会」に - 池田への帰命
「われわれに立場でこの人への帰命という事を、もっと具体的に考えれば・・現代における"人"への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる。また、池田会長が大聖人の御書を寸分違わず、身に移し実践されている」『ひのくに』第10号 - 1975.5.27
- 名誉称号第一号貰う
1975年5月27日 ロシア(旧ソ連) モスクワ大学の名誉博士を皮切りに2010年3月現在で277個。これらは本の贈呈などお金で買ったものであることが、大学や学会関係者から度々暴露された - 1975.6.10
- 「学会のために本山が犠牲になる。学会が全ての主体である」 「創価国、創価王国を、地球上に宇宙に作ってみんなを守ってあげよう。」(第二回東京最高会議での池田発言)
- この頃、福島源次郎副会長と池田氏と懇談で 「生粋の池田派は中西・福島・原島だな。他は北条派や秋谷派に属しているから生粋とはいえない」 と池田氏が語る。 が、その3人ともに生前から池田氏から去ってしまった。 志茂田景樹 『大寄進』を発表。学会が志茂田へスパイ行為働く
- 1975.6.16
- 八王子本山構想
「創価学会が手段になってはならない。とんでもない。創価学会が原点。日蓮正宗、法華講はおとぎ話」 「大学の近くに数万坪の土地を買って数十億。牧口児童会館とか--戸田記念館・・・世界の本部にする。公会堂、地方の人がもう何千人でも泊まれる恒久的な本部、広布流布の本山をつくっておきたい。会員から応援してもらって、これでほぼ日本の機構が確立。本山は坊さん--どうしようもない。学会は別法人。見事なものをつくりたい」第一回本部中央会議 - 1975.6.27
- 学林研究科開講式
「・・・火の国・十号ですね・・我々僧侶はいかなる悪口を言われようがどうしようが、かまわないけれども、我々の時代に大聖人の仏法を壊し、日蓮正宗を破滅に陥らす様な事があったならば大変な事です。どうか銘々の責任を以て人々を導いていただきたいと思います」日達猊下 - 1975.7.8
- 政教一致発言
「政教一致---大きなお世話。不仲説・・・誰がいったか。親として自分の手製の党を心配するのは当たり前」婦人部長研修会 - 1975.7.12
- 池田 宮本顕治と対談
- 1975.7.27
- 共産党と「10年協定」を公表
- この頃、池田は「弟子分帳」を制作
池田の直弟子たる証明として「記別」の称号を与える。数千人の幹部に与える。【資料】➡ - 月刊ペン裁判、隠密に手打ち ニューオータニさざんか荘で隈部の弁護人、山崎正友、笹川陽平の間で手打ちの打ち合わせ。以後、数回行われる。
- 秋ごろ、山崎正友氏から池田氏へ「日達上人は、次は阿部教学部長に譲られるおつもりのようです」と進言。それを聞いて池田氏は阿部教学部長の懐柔策を進める。(「懺悔滅罪のために!」暁鐘編集室)