池田会長指導
御本尊について
創価学会の本質、すなわち目的は、あくまで日蓮大聖人様の不滅の生命哲学をもって、東洋民衆を救うということであります。大聖人様の出世の御本懐は一閻浮提総与の大御本尊様、すなわち三大秘法の大御本尊様の御建立にあります。(当時、参謀室長 会長講演集第三巻)「三大秘法総在の御本尊こそ、弘安二年十月十二日ご図顕の本門戒壇の大御本尊である」観心本尊抄講義 25頁
「御本尊様は日蓮大聖人の生身と拝することです。その信心でなければなりません。(中略)御本尊を“物”と扱うようになった場合は罰をうけます。学会精神に反します。信心ではありません。」大白蓮華 昭和39年8月
「日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖日蓮大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人猊下が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているである。ゆえに私どもは、日顕上人猊下の御指南を拝しつつ、正宗の伝統と法義をふまえながら、勇んでそれぞれの国で、それぞれの地域で、信心向上のための教学を研鑽し、おおいに広宣流布に邁進していただきたい」広布と人生を語る
「歴代御法主上人については、これは、数あるご僧侶のなかでも、ただお一人のみが御本尊を書写なさり、それを私どもが受持するのですから、その内証においては日蓮大聖人と拝しているのです。これは日蓮正宗のゆるがぬ伝統といってよいのです」昭和55年4月2日
「御本尊に関しては、厳密にいうと、唯授一人と申しまして、ただ一人にしかわからぬことなのです」人間革命 第7巻112頁
「かりに御本尊も、一見すればたしかに物体であり、なくなる場合もあるようにみえるが、代々の御法主上人が、かならず御本尊の御図顕をなさってくださる。絶対の法が残されるのである」広布と人生を語る 第4巻216頁
ともあれ、宗教、信仰において、もっとも重要なのは「本尊」である。次に、この本尊について述べておきたい。 「本尊」の字義には、「根本尊崇」「本有尊形」「本来尊重」の三つの意義があり、「根本尊崇」がその中心となる。宗教の是非正邪は、この本尊の是非正邪によって決まる。ゆえに正しき本尊を選び、根本として尊崇すべきである。 日寛上人は「観心本尊抄文段」の序で、次のように仰せである。 (中略) 仏法の正統な流れにおいては、本尊とすべきもの、本尊とすべきでないものについて明確に定められている。 大聖人は「本尊問答抄」のなかで、末法の正しい本尊を明かされるにあたって、種々の経釈を引かれている。その一つに、法華経の法師品第十の文がある。 (中略) ――本尊に迷うがゆえに、わが色心(生命)に迷う。わが色心に迷うがゆえに、生死の苦しみを開きゆくことができない―― 。本尊に迷うがゆえに成仏できない。不幸な、苦悶の姿で臨終を迎えざるをえないのである。 (中略) つまり、末法にあっては、御本尊を受持することによってのみ成仏ができる(受持即観心)のであり、御本尊を受持することが即持戒、戒を持つことになっている(受持即持戒)。また、御本尊を受持することが即戒を受けたことになる(受持即受戒)のであり、ひとたび持てば、順縁、逆縁ともにすべての人が救われるので金剛宝器戒という。 すなわち、御本尊の受持に一切が含まれており、そこにすべての人が等しく成仏得道できる唯一の方途が明かされている。 (昭和62年7月29日 函館研修道場)
一閻浮提総与の大御本尊の御もとに、一閻浮提広宣流布への原点ともなった歴史的なこの日は、年月がたてばたつほど光彩を放っていくと、私は確信したい。 この日、日達上人に御臨席いただいたことは、私のこのうえない喜びであった。また、この日集われた妙法の戦士のお一人お一人のお名前は、SGI の本部に永久に保存されている。けさも私は、その方々のご多幸とご長寿を祈念させていただいた。 現在もそうであるが、これまで日本の国を離れ、各国で草創期に活躍してこられた方々は、言語、風俗、宗教、慣習も違う厳しい環境のなかで、それぞれの国の広宣流布の土台を築いてくださった。私は、その尊い方々に深く感謝申し上げたい。いな、大御本尊の功徳は絶大であり、その方々のうえに燦然と輝いていくことと確信する。(昭和62年1月26日 第12回SGIの日記念代表者会議)
「私どもが拝んでいる大御本尊様は、 一閻浮提総与の大御本尊様でございます。全世界の人々が、絶対の幸福をつかむためにも、仏になるためにも、大御本尊様を拝む以外に道はないわけです。」昭和35年9月27日 第五回本部幹部会 東京体育館
【破門後】
大御本尊は「一閻浮提総与」であられる。全民衆の幸福のための御本尊であられる。その大御本尊が書写された、会館や皆さまのご家庭の御本尊も、御本尊としての御力に、何の違いもない。また、仮に御本尊を拝せない場合も、強盛な信心の唱題は、大御本尊に必ず通じていく。妙法は全宇宙に遍き大法なのである。(平成3年12月23日 荒川・立川文化音楽祭での池田発言)
人と法について
十月ときくと、多宝富士大日蓮華山にまします大仏法のありがたさを、ひとしお感ずるものである。この弘安二年(一二七九年)十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊のみが、全世界の人々が、信伏随順せねばならぬ宇宙の大法則なのである。口で幸福を論じ、平和をとなえる人は多い。しかし、真の平和建設の直道への鍵が、富士に厳存することを知らない。(中略)
吾人らは、漠然と富士を讃えるものではない。御書にいわく「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」( 御書全集一五七八ページ )云云と。法とは、寿量文底秘沈の大法・事の一念三千の南無妙法蓮華経の御本尊のことである。人とは、末法出世の御本仏日蓮大聖人の御事であり、遣使還告にわたらせられる、御法主上人の御事と拝する。所とは大御本尊のおわします富士大石寺のことである。 (池田大作珠玉集)
血脈について
「日蓮正宗における根本は、唯授一人の血脈である。その血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくるのである。創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、永遠に栄えていくことはまちがいないと確信ずる。」広布と人生を語る 3「七百星霜、法灯は連綿として謗法厳戒の御掟を貫き、一点の濁りもなく唯授一人の血脈法水は、嫡々の御歴代御法主上人によって伝持せられてまいりました。いまここに大石寺開創七百年の出発にあたり、御当代日顕上人猊下の御慈悲を拝することは、無上の喜びであります。」(昭和59年3月31日 大石寺開創七百年記念慶祝準備会議 総本山大石寺宗務院 「広布と人生を語る」第六巻)
「ご存じのとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第2祖日興上人、第3祖日目上人、第4世日道上人、および御歴代上人、そして現在は第67世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない。」「広布と人生を語る」第3巻249
「第六十七世御法主日顕猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と継承されているのである。だれ人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである。」 「広布と人生を語る」第2巻123ページ
法体の血脈について>
「別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極であるとの意味であります」「別しての法体の血脈相承は『身延相承書』に『血脈の次第 日蓮日興』と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯受一人の御法主上人が伝持あそばされるところであります」(6.30)
軍縮について
全世界が平和と幸福を理想として、軍備縮小の実現に一歩一歩近づいているが、時代の趨勢とはいえ、これで真の平和が招来されると、だれが断言できるであろうか。ゆえに、われわれは、ここにこそ、形而上の問題として、軍備縮小の裏づけとし、またその完全なる実現のために、万国に共通する真実の宗教を求めよ、と叫ぶものである。(大白蓮華 昭和39年3月号)指導について
わが創価学会の指針は、牧口常三郎初代会長、戸田城聖前会長以来、指導主義を厳守している。私たちはいま、幸福生活への根本理念を知り、かつ具体的方法を体得しているのである。その原理、方法とは何か。いうまでもなく、日蓮大聖人の出世の本懐たる弘安二年(一二七九年)十月十二日の三大秘法の大御本尊に唱題することにつきるのである。これほど明確にして、簡単なる哲理と実践が、どこにあろうか。(中略)指導とは、唯一の目的である大御本尊をしっかり拝ませることを、いかに実行せしめるかにある。指導は慈悲の一念よりあらわれた激励であり、忍耐強くなされねばならぬ。(大白蓮華 昭和36年12月号)
大御本尊否定
「その折り、私(識者)は、『究極に求められるものは何でしょうか』と(池田に)質問しました。おそらく『板曼荼羅の御本尊』と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は『久遠元初の法です』と答えられたのです。(中略)このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板曼荼羅に偏狭(へんきょう)にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た想いでした」平成5年5月3日「宗祖日蓮大聖人がこの御本尊も、ただ信心の二字におさまれりと言われたのであります。信心の二字の中にしか本尊はないんです。本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人の御書だ。」平成5年9月7日・本部幹部会
不適切発言
「糸満平和会館て、これ名前変えた方がいいんじゃないかな。……ウーマンっぽい、ウーマンっぽい。糸満なんてウーマンっぽい(※会場はあまりウケない)……駄目か。もっといいね、いいのは、キンマン、いや、イトマン、キン○○コだよ!(会場爆笑)」 平成5年7月7日・第六十六回本部幹部会「ハワイ!(中略)マハロー! マハロー! バカヤロー! バッハロー!」 平成5年1月27日・アメリカSGI&関西合同総会
財務について
「サンフランシスコの皆さん、今回は関西の交流団がお世話になりました、と、お世辞を使っておいた方が、広布基金がたくさん取れることを、私は声を小さくして申し上げておきます」 平成5年1月27日・アメリカSGI&関西合同総会反人権発言
「あのー、まぁ日顕(上人)なんか、その(イヤな奴の)代表だっていうんだ。ほんな、針金で結(ゆ)わえて、あの頭、トンカチでぶっ叩いてね(笑い)。 」 平成4年12月13日・全国青年部幹部会ご供養
「どれだけのご供養したか。とってとってとりまくって、もうどれだけの供養したか。(中略)戸田先生は十七万坪ですよ。私は、百十七万坪への拡大をしてあげたんです!(中略)世界中に私ほど供養した人間いないだろ?ね。戸田先生、(中略)これはちいちゃいです。」 平成20年9月3日・本部幹部会「総本山の難は、終戦後も、さらにその激しさを増していった。六百数十年の間、謗法の徒からは、一銭の供養も受けず、孤高を持してきた」人間革命 第1巻241頁
「御供養は、われわれ信徒の真心だけです。そのほかに何もない。問題は、真心こめて御供養申し上げる。ただそれだけではないか。それを、御僧侶がどうお使いになろうと、われわれ新とには関係のないことだ。仮に、その御僧侶が浄財を、とんでもないことに使ったとしても、われわれの感知するところではない。その方に、大聖人のお叱りあるは必定です。御供養はかくあるべきものと、戸田は思うのです」人間革命 第3巻206頁
「最後に、このように地方本部ができまして、この本部ならびに寺院の建立も、たくさん総本山に御供養申し上げておりますが、過去においても、学会は、会員から、ただの一銭も迷惑をかけておりません。また広宣流布の日まで、学会が続くかぎり全学会員の皆さん方から一銭も寄付を取り、迷惑をかけさせていくようなことは絶対にいたしません。」昭和35年12月7日 中国本部落成式 中国本部広間
「財施」とは、仏祖三宝尊に報恩感謝の心をもって、財物を供養し奉ることであり、その信心によってわが身に無量の善根を積んでいけるのである。正宗の信徒として、仏祖三宝尊をつねに敬い、そして令法久住してくださる御僧侶方が安心して御奉公できるためにも、この供養の精神を忘れてはならない。財施といっても、財の多寡ではなく、仏祖三宝尊を敬い、供養申し上げようとする真心が大事なのであり、その真心の″志″のなかに、永遠にわたる功徳、善根が積まれていくのである。(昭和59年2月28日 「広布と人生を語る」第六巻)
大聖人直結
「日顕宗の言う『血脈』などは本当にナンセンスな話です。本来、宗教には、『仏と自分』との関係の信仰が重要であって、権威主義の『血脈』などは、信仰的には何の意味もない」聖教新聞・平成5年5月5日「成仏は自分自身の『信心』で決まるのであって、『聖職者』の介在によって決まるのではない。『直接』こそ仏教本来の在り方である。『日蓮大聖人直結』の創価学会の信仰こそが正義なのである。」聖教新聞 平成6年6月5日
正信会が御法主上人との血脈を否定したことに対しての発言 「これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである」『広布と人生を語る』第三巻P294
広布流布
「私が御法主猊下様、大聖人様に広布流布いたしましたと、猊下をお通しして、一閻浮提総与の大御本尊様にご報告することが、究極の、広布流布の暁の、その意義なのであります。」聖教新聞 昭和40年7月26日「真実の広布流布は、大聖人の宗教革命の真髄たる三大秘法の南無妙法蓮華経が、世界人類に行きわたることである。三大秘法とは南無妙法蓮華経の題目と、日蓮大聖人出世の本懐たる南無妙法蓮華経の本尊と、三大秘法抄の定義による南無妙法蓮華経の本門の戒壇である。されば三大秘法の広布流布でなければ、まだ広布流布せりとはいえないのである。」折伏教典 昭和40年12月20日校訂再版
三宝とは
「即ち、仏宝とは、末法御本仏・日蓮大聖人、法宝とは御本尊、そして僧宝とは本門弘通の大導師であられる二祖日興上人である。(略)ここで『僧宝』とは、今日においては日興上人より唯受一人の法脈を受けられた御法主上人猊下であられる。また、御僧侶は全部猊下の弟子である。法類である。ゆえに、いかなる理由があるにせよ、我々はご僧侶を大切にしなければならない」聖教新聞 昭和53年2月26日【自語相違発言】
「今日における『僧宝』つまり仏法実践者の組織としては創価学会がある」昭和49年5月27日
御法主上人は
「あくまでも師匠は日蓮大聖人様即御本尊様です。それから『遣使還告』あそばされる代々の御法主上人猊下です。われわれはぜんぶその弟子です」(池田大作 巻頭言・講義集 3-113) .「御法主上人猊下様は遣使還告(けんしげんごう)で、日蓮大聖人様と拝し奉るのです。このことは信心のうえからはっきりしたものです。」 池田大作『巻頭言・講義集』第3巻184頁
「唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべき」 聖教新聞 昭和54年5月4日付
勤行
「日蓮正宗においては、また学会の指導は、五座三座というが、自分は三座二座でいいではないかなどというのは懈怠です」(会長講演集 第6巻219頁)五座三座の勤行は、信心修行の基本であります。真面目に実践している人は、強い生命力にあふれ、リズム正しい生活を確立し、立派な社会人として成長していっている。経文に「諸法実相所謂諸法」とあるごとく、信仰の結果は厳然と実生活にあらわれるのです。 反対に、多忙に負け、あるいは初心の信心を忘れて怠っている人は、それだけの結果しか出ず、長い日で見れば大きな成長の差がついてしまう。信心はまず、五座三座の勤行を不断に実践することが根本であることを銘記し、どうか皆さん方は、仲良く友人として尊敬しあって、伸びのびと進んでいってほしいと思います。(昭和45年10年18日 九州幹部会 池田会長講演集 第3巻)
富士の清流
「大東亜戦争の最中には他の宗教、他の教団は、ぜんぶといっていいくらい軍部と結託しました。その時に日蓮正宗だけは、単独でがんばりきった宗団です」(会長講演集 第2巻143頁)「この富士の清流は第二祖日興上人、第三祖日目上人、そして現六十七世御法主上人猊下までの御歴代上人方によって厳然と護持されてきた。そこに貫かれてきたのは『謗法厳誡』である。他宗教にはまったくみられないものだ。」広布と人生を語る・3-98
本師とは
「日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖日蓮大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人猊下が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているである。ゆえに私どもは、日顕上人猊下の御指南を拝しつつ、正宗の伝統と法義をふまえながら、勇んでそれぞれの国で、それぞれの地域で、信心向上のための教学を研鑽し、おおいに広宣流布に邁進していただきたい。(広布と人生を語る1-131頁)「いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の「遣使還告」であらせられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである」 (広布と人生を語る1-230頁)
「その信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである。総本山を中心とすることが根本であり、御法主上人猊下御一人が仏法の師でいらっしゃるのだ」広布と人生を語る 第3巻98頁
学会精神
「この代々の御法主上人猊下に御奉公していく信心が、創価学会の根本精神なのである」(広布と人生を語る3-151頁)創価学会
「今日、日蓮正宗創価学会がこのように発展し、短期間に正法流布の根を深く広くはることができたのも、日蓮正宗の伝統の根が深いということにほかならない」(広布と人生を語る1-62頁)「創価学会は、その大聖人の仏法を信じ、実践する日蓮正宗の信徒団体です。世間ではよく創価学会を、一つの宗派のごとくみている人がおりますが、これはまったくの誤りです。創価学会はあくまでも、日蓮正宗の信徒の集まりであって、「創価学会宗」でも「創価学会教」でもありません」改定版創価学会入門 昭和55年9月12日発行
相伝
「大聖人の正義は、「当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり」(立正観抄)とおおせのごとく、相伝がなければわからないのである」大白蓮華 昭和37年9月「総じていえば、日蓮大聖人の直流の門下にすべて相伝があるといえるが、別していえば、法体の血脈相承はただ一人に限る。日蓮大聖人の付嘱が唯授一人の日興上人であらせられることは、二箇相承に明らかである」聖教新聞 昭和42年6月2日
御授戒
「いまだに、いろいろな戒律を守っている宗教がありますが、その教えがいかに低級であるあるかを物語っています。また、授戒の儀式もないような新興宗教は、宗教の名に値しないといえます」大白蓮華 昭和37年4月 第131号学会の反省
「いくどか申し上げてきた「6・30」「11・7」の基本精神は、私どもにとっての信心の根本であるゆえに今後もさらにさらに、一人ももれなく指導、徹底を私は心からお願いしたいものである」聖教新聞 昭和54年4月15日「近年の宗門との問題が昭和47年、正本堂建立以降の、学会の広布第二章の進み方の基調と、そのうえで、私が展開した昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります」 「御書の拡大解釈や逸脱については、すでに「六・三〇」(教学上の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります。したがって、この徹底を怠ってはならないし、また、正宗の正法正義を正しく学んでいくことは、世々末代にわたる肝要と深く自覚しなければなりません。」 聖教新聞 『所感恩師のニ十三回忌に思う』 昭和55年4月2日
名聞名利
「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。(中略)私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、名前もいらない、有名でなくてもよい、大臣もいらない、また権力もいらない」聖教新聞 昭和38年8月3日登山
【登山会の意義】次に、登山会の意義について申し上げたい。私どもにとって、信仰の根本の対象は、いつまでもなく本門戒壇の大御本尊である。その大御本尊にお目通りすることが、登山会の最も大事な目的であり、意義である。 この登山会の意義について、五項目に分けて整理しつつ、再確認しておきたい。
一つは、私ども一人一人の無始以来の深重の罪障を消滅し、現世安穏、後生善処の幸福をお願いすることにある。罪として滅せざるはなく、祈りとして叶わざるはなしの大御本尊であります。 人生にあって、絶対的幸福を実現する道は、大御本尊への真剣な祈り、すなわち境智冥合以外にないことを知っていただきたい。
第二には、久遠元初の生命の故郷に帰る。生命を本源的に洗い清めて新たなる生命力をいただくのである。末法の衆生にとって、主。師・親の三徳を具備された仏は日蓮大聖人であり、人法一箇の大御本尊である。 大御本尊のましますこの大石寺は、私どもにとって根源の故郷であり、尽きることのない生命力の泉である。
第三は、私ども同志が等しく日蓮大聖人の門下であり、地涌の菩薩であるとの自覚をもち、そのうえに立った真の団結を築くことである。 私どもの団結は異体同心ということに尽きる。同心の心とは大御本尊への信心であり、信心によって結ばれた団結である。
第四は、末法広宣流布への戦いの決意を、大御本尊にお誓い申し上げるのである。広宣流布の大目的にめざめ、広宣流布実現に戦う人を真の地涌の菩薩というのである。 私どもは、この目的遂行のために生まれてきたことを確信しなくてはならない。黄金の人生は、この広宣流布への花々しい実践のなかにこそ開かれることを知っていただきたい。
第五は、全人類の幸福と平和を祈願し、また、その理想に向かって前進を誓い合うのである。大御本尊は一閻浮提総与の御本尊であり、全世界の民衆の幸福と平和の鍵はこの御本尊に秘められている。大御本尊なくば、この世界は暗黒である。そして地獄であるといっても過言ではない。御本尊の光明をば、全世界に伝えきっていく使命は、私どもが担っているということを誇り高く確信してほしい。 昭和45年9月30日
「われわれが登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受できることは言うまでもないのである。」 昭和38年10月1日
信心とは
「信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである。総本山を中心とすることが根本であり、御法主上人猊下お一人が仏法の師でいらっしゃるのだ」池田大作・広布と人生を語る総別の二義
生死一大事血脈抄講義で「『血脈』には別しての『法体の血脈』と、総じての『信心の血脈』とがあり、明確に立て分けなければならないことである。すなわち『法体の血脈』についていえば、久遠元初自受用身報身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである」(日蓮大聖人御書講義30上・学会版)<又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん>曾谷殿御返事 「総別の二義」です。総別の二義をたがえるならば、成仏できない。ここは大事なところです。 総じては、あくまでも迹化の菩薩に総付属として、仏法はゆずった、しかし、別しては、別付属として、上行付属、結要付属、すなわち、妙法蓮華経は、日蓮大聖人様にゆずられたと、こう読まないと間違いを起こすのです。 すべてこうなるわけです。たとえていえば、総じては一切衆生は仏なり、別しては、日蓮大聖人様おんひとなりとなるのです。総別の二義をわきまえないと「日蓮大聖人様は一切衆生仏なりとおっしゃっている。だから自分は仏である。信仰など必要はない」とこういうふうになってしまうのです。 「総じては、あくまで、ぜんぶ会員である。御本尊様の子供である。だが、別しては、折伏行に励み、広宣流布に進んだ人が、まことの弟子である」また「総じては御本尊様をたもった者には、ぜんぶ功徳がある。別しては、日蓮大聖人様のおおせどおりに信心しきったものだけに功徳がある、成仏ができる」こういうことになるでしょう。 その総別の二義を間違えてしまえば、成仏することができないのです。「仏法といえば、総じていえば、ぜんぶ仏法である。別しては、日蓮正宗以外に仏法は断じてない」こうなるわけです。(昭和37年8月9日 於本山 池田会長指導)
証人喚問
「私は世界に出ていって評価を高めるんですから、日本では何をいわれてもいいんです。証人喚問だってなんともないんです。だって私は、何も悪いことしていないんだから」 平成6年9月14日 記者懇談会政教一致
「こう言うと、また政教一致と言われるけどね。教義を実現するためには、政治の力が必要です。そういう目的で公明党を作ったのだから。それは変らないですよ。」 平成6年9月14日 記者懇談会で「創価学会を離れて公明党はありえない。 もし創価学会を離れた独自の公明党があるとすれば、それは既存政党となんら変わることのない存在、創価学会と公明党は永久に一体不二の関係。 」(池田会長全集 第1巻)
「公明党と学会との関係は絶対にこちら(※創価学会)が上だ。 世間は馬鹿だから、議員が偉いと思っている。 」(第五十回社長会での池田大作氏発言・昭和四十年七月八日)
「今、まことに私は、せんえつな言い方ではございますが、私も創価学会の若造ではありますけれども、会長となった以上、申し上げておきたいことは、私も軍隊には行ってはおりませんし、また、政治のほうにもたずさわっておりません。あくまでも創価学会は絶対に全民衆を救っていく宗教団体であるということを貫き通していくことを宣言しておきます。(中略)創価学会は衆議院には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから。政治団体ではありません。」昭和35年6月10日 中部総支部幹部会 名古屋市金山体育館
二箇相承
「大聖人からの唯授一人の血脈は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四世日道上人へと、一器の水を一器に移すように代々の御法主上人へ相承され現在に至っている。」 『仏教哲学大辞典』(第二版 1305ページ)
一方、勝頼も「二箇相承」の御真筆紛失という謗法の因をつくっている。「二箇相承」の御真筆は、大聖人御入滅後三百年ごろ、北山、西山両本門寺の争いが原因で、武田軍(勝頼)の介入を誘って紛失した、とされている。
(昭和62年5月8日 富士宮圏記念幹部会)
後加文について
「この部分も、私たちが大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可欠の記述といえましょう。(中略) 代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたい」 『大白蓮華』 昭和52年1月号 20ページ会館建設
「さきほどから邪宗闘争にあって、いろいろな話がありましたが、大阪府内においては、たくさん邪宗教がありますが、天理教だけは、まるで宮城みたいな大きい建物を造って、信者をたぶらかしております。聞くところによりますと、何百億という財産をもっており、あの建物は日本一だ。人を救うべき宗教が、反対に家をもってこい、たんぼをもってこい……、ドロボウです、まるで。」昭和35年5月8日 関西総支部幹部会 大阪府立体育館塔婆供養
「塔婆供養の意義について述べておきたい。死後の生命は、宇宙に冥伏し、生前の因縁に応じて、十界のそれぞれの世界で、苦楽の果報を受けているのである。塔婆供養による唱題の回向によって、諸精霊に追善がなされ、生命の我を悪夢から善夢ヘと転換していけるのである。」(昭和59年5月号 大白蓮華 池田指導)不戦について
とりわけ核時代の人類生存の絶対的条件とは、あらゆる戦争の否定であります。たとえ核兵器を使用しない戦争であっても、それがいつ核戦争にエスカレートするか分からない以上、不戦こそ人類生き残りの不可欠の条件だといわねばなりません。(第九回「SGI の日」昭和五十九年一月二十六日)日本という国家自体を考えてみても、今日の日本国憲法は、この「人間の論理」にたって制定されたものといえます。だからこそ、人間の尊厳を侵す交戦権を放棄することを、明確に宣言しているのです。。これは、国家としては、世界ではじめての例であり。また、その後、他にこれを宣言した例も、まだありません。それだけに、この意義が正しく、広く認識されていないのは、非常に残念なことです。(池田会長全集 第9巻)
日本も、絶対平和をめざし、一切の軍備の放棄をうたった憲法をもっています。ただし、それにもかかわらず、今では強力な軍事力をもつにいたっていることは、まことに残念です。(池田大作全集 第7巻)
日本国憲法が規定する「交戦権の否認」を世界各国の憲法が導入する道を探ることであります。これにより国家主権の発動としての戦争という仕組みを廃絶することを目指したい。(池田大作全集 第2巻)
〝世界に貢献〟するための〝憲法改正〟論議なども一部では浮上していますが、私は賛成できない。平和志向の国家としての国是にかかわるからです。やはり、何人かの識者が提案しているように、自衛隊とは別個に、国連の平和維持活動PKO)に参加するための組織を作るというのが正しい道であろうと思います。(池田大作全集 第2巻)