原田会長指導の変遷
問9 日蓮正宗が正統たる根拠
日蓮正宗のみが、どうして日蓮仏法の正統といえるのか。他のどの日蓮宗各派も同じことを言っているではないか。
原田稔学生部長(現会長)の発言
ご質問にお答えする前に、こちらからお尋ねしますが「どこの日蓮宗各派も同じことをいっている」というのは、 一体何をさしてそのようにいうのですか。たしかに、日蓮宗各派とも「南無妙法蓮華経」を唱え、日蓮大聖人の教説の流布を目指して運動しています。
しかし、それぞれの、日蓮仏法へのアプローチ、解釈には大きな隔たりがみられ、それが門流の形成と不可分であることは容易にうなずけると思います。
たとえば、本述勝劣・一致論争、日蓮本仏論の当非、本尊論などを例にとってみても、各宗派間では水と油ほどの対立した見解をとっています。ですから、一概にどこの宗派も「同じことをいっている」というのは、あまりにも表面的で、無認識に基づく速断であるといわざるをえません。
また、世界平和、社会への貢献などは、どの宗教でも主張することがらであっても、その裏付けとなる理念によって、その運動の質、深みが、更にはその方向性さえも大きく異なってしまうことを知らなければなりません。
ところで「日蓮正宗のみがどうして日蓮仏法の正統といえるのか」
というご質問ですが、これは前に述べた、日蓮宗各派の主張の相違と門流形成の歴史を理解すればおわかりいただけると思います。
日蓮大聖人は六人の高弟(六老僧)を選び、さらに日興を後継者に任じたのです。しかし、大聖人滅後、教団は分裂し、それぞれ門流を形成していきました。その過程において大聖人の精神は、日興の法統を除いて大きく変容して、時の推移と権力との緊張関係のなかで、形骸化していつたのです。具体的には六老僧のうち、日興を除く五人は幕府の権力を恐れて〝天台沙門〟と称して、師匠である日蓮大聖人の本意に背き、更には伊勢神宮、熊野に参詣を企て「立正安国論」の精神を踏みにじり、日蓮仏法の正道から大きく逸脱していったのです。
また身延山は、大聖人が八年以上にもわたって在住し、法弟日興が後継者としてしばらくの間、法灯を守っていたことは事実ですが、地頭・南部波木井実長が四箇の謗法をおかし、日興の指導に背くようになったため「日蓮が魂は謗法の山には住まず」との師の遺言に基づき、日興は本門戒壇の本尊等の重宝をもって「身延離山」にふみきったのでした。
四箇の謗法とは
①釈迦を本尊とする
② 二所、三島の神社に参詣する
③福士の塔の建立
④九品念仏の道場の造立、
の四つを指します。
いずれも、生前、日蓮大聖人が厳しく破折してその謗法を断じたところです。
このような周囲の動きに対して、日興は日蓮仏法の正統を守り、未来の広宣流布の基礎をつくるために、富士に居を定め、法水の清流を守ったのでした。そして「法水写瓶」――器から器へ水をうつすように血脈付法されて、代々の法主に相伝されてきたのが日蓮正宗なのです。なかんずく、日蓮仏法の最終的帰結であり日蓮大聖人出世の本懐たる、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊が、七百年間、富士大石寺に厳護されてきたことは、日蓮正宗の正統性を立証する上で決定的な証拠であるといえましょう。
(『青年と仏法50問50答』昭和51年発行)
大御本尊決別 2014.11.8(聖教新聞)
「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。」
問11 創価学会の社会に対する基本姿勢は
創価学会は日本最大の宗教団体、日本最大の民衆組織として、今後の日本の動向を決定するうえで決して無視しえない文化的、社会的、政治的な潜在的影響力を有しているといえる。創価学会の社会に対する基本姿勢、基本的原則はどのようなものか。
この質問への回答は、まず第三十八回本部総会での、池田会長の講演に明らかです。
「創価学会の社会的役割り、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって、人間の尊厳を犯し続ける″力″に対する、内なる生命の深みより発する″精神″の戦いであると位置づけておきたい。」
これが、創価学会の社会に対する基本原則です。
(中略)
また、政治権力、財力、暴力などによる外的拘束力といっても、所詮は、人間の内なる魔性に、その因を尋ねることができるのです。
それは、人間の悪しき欲望・エゴの社会的表現に他なりません。
日蓮仏法の至当性は、まさにこの生命の魔性、エゴに真っ向から立ち向かい、それへのあくなき挑戦を軸として、内なる世界の変革を成し遂げようとするところにあります。ここに、「内なる生命の深みより発する〃精神″の戦い」としての創価学会の運動が成立するのです。
(中略)
従って時の権力に迎合したり依存することは、その歴史的に限定された社会体制や政治体制の支配的な価値。規範を無原則に受けいれたことになり、宗教団体としての使命を自ら限定し死滅させることにほかなりません。世俗の政治権力の在り方と鋭く関わりつつも、それを超越したところに宗教的立場があるとする非政治主義的な立場こそ創価学会が権力の側に立たないという意味なのです。
(『青年と仏法50問50答』昭和51年発行)
金と権力にとり憑かれ た創価学会