学会がいう法主詐称について
学会がでっち上げる〝ニセ法主〟〝法主詐称〟
学会が主張する「法主詐称」のネタ元
昭和55年11月20日号
山崎正友氏『週刊文春』で法主の不相承記事掲載。
正信会は「法主自身が資格がなければ、処分は無効になる」と考え、山崎氏をそそのかし「相承の儀式がないのだから、血脈相承がないのだ」と手記を掲載。
後年、正信会幹部が覆す証言!
(法華講有志と正信会新旧幹部での証言) さらに詳しく→「私は、日達上人が阿部さん(日顕上人)に『後を頼む』と言ったと思う。だとしたら、相承(があった)ということだろう。」
「お側で聞いたわけではないが、(日達上人が)千葉の在家の前で『この次はこの阿部(日顕上人)にさせるんだ』とおっしゃったことだってあった。」
日達上人 日顕上人に譲ることを身内に話す
昭和49年、日顕上人の母・妙修尼を見舞われた際、
「あなたの息子さんに後をやってもらうですからね、早く良くなってくださいよ」と仰せられる。 大石寺に戻られた日達上人は、大石寺理事のお一人に「妙修尼に『あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさい』と言って励ましたよ」と仰せられる。
昭和53年4月、日達上人は身内の僧侶方に対し、次は日顕上人に後を譲る旨のお話をされる。
【文証】
『大白法』菅野日龍能化発言
「かねがね日達上人は日顕上人を後継にとお考えになられており、そのことを日顕上人御本人にもお伝えされていたことは遺族一同も承知しており、別の方へというお話は一切伺っておりませんから、遺族を代表して、その場におられた日顕上人や藤本総監(当時庶務部長)に、『次は阿部さんがなると日達上人より伺っております』とお答えしたのです」(平成15年11月1日号)
破門前、相承を認めていた学会
「第六十七世御法主日顕猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と継承されているのである。だれ人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである。」(広布と人生を語る第2巻)
「日達上人御遷化の後、御当代御法主上人猊下を非難している徒がいる。私は、命を賭して猊下をお護り申し上げる決心である」(広布と人生を語る第3巻)
➡「日顕宗の言う『血脈』などは本当にナンセンスな話です。」(1993.5.5)
と発言しているが、側近幹部が非難しているような「相承はされていなかった」などとは言っていないのではないだろうか。
「相承する時間はなかった」
「日達法主の急逝に乗じて、ウソ謀略で67世・法主の座を乗っ取った日顕は、〝昭和53年4月15日に本山で相承を受けた〟と主張する。」
(『民衆勝利の凱歌』創価学会青年部編 2011.10.2発行)
検証!!
「相承する時間は無かった」とする創価学会の憶測は破綻
●創価学会の主張するスケジュール午前0時 大客殿で丑寅勤行の導師務める
6:30 起床 御影堂に徒歩で移動
7時 御影堂で日目上人法要の導師
8時 大坊で、本山住職から誕生日祝い受ける
9:30 大奥で3人の僧侶とお目通り
10時 原田篤道が結婚挨拶に来る
11時 文京区の出張所に移動。本山出発
午後6時 都内ホテルで誕生祝い
9時 文京区の出張所で就寝
日達上人のご長男は、正信会問題の折り、昭和53年4月15日、相承が行われたことを「報告書」として裁判所へ提出。
それによれば、日達上人が総本山での用事を終えられて東京へ御出発されたのは「午後3時過ぎ」であり、創価学会がいう「午前11時には東京に向かっている」との主張とは、4時間の食い違いがある。
(引用 『続・創価学会のいうことはこんなに間違っている』日蓮正宗法義研鑽委員会)
※学会が主張する「11時に出発」説は、正信会が述べた疑義であり、全く根拠のない言い分を学会は流用した。
参考までに
学会の主張 血脈相承は邪義
「日顕宗では、法主から次の法主へと伝わる「唯受一人」の「血脈相承」が根本、と主張する。しかしこれは、仏法とは無縁のまったくの邪義。」
(『民衆勝利の凱歌』創価学会青年部編 2011.10.2発行)
「相承は必要ない」としながら、宗門の相承を否定することはただの難癖!
●甚だしい自語相違
「相伝がない所に仏法は存在しないし、相伝がない本尊を拝めば、功徳がないばかりか、正法にそくむ謗法である」
(大白蓮華・相承の重要性について 秋谷栄之助論文 1953.5)
第三者の介入を許さぬ秘伝
本来、血脈相承は、御法主上人から次期御法主への唯授一人の秘伝であり、お二方以外の者が立ち入ることはできないものです。したがつて、第三者による証拠や記録や証人などがなければならないという性質のものではありません。「先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する」(戸田城聖全集第三巻)