牧口会長らの逮捕で壊滅
創価教育学会は30支部、5,00名ともいわれる会員を集めたが、牧口は「日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた」というように、我流の信仰心をもっていたことを物語っている。さずがに、この考えは、現在の学会でさえ、採り入れていないことからも、大聖人の仏法ではないと見ているようである。
創価学会への宗教弾圧
時の政府は、戦争を進めるための方策の一つとして、宗教団体の大同団結を促した。この流れの中で、日蓮正宗に対しても日蓮宗との合同を求めたのだった。
各家庭においても、政府は皇大神宮の神札(大麻)を配り、拝むよう強制したのである。当然それは、学会員にも及んだのだが、牧口らは、日蓮正宗の教義にならい神札を拒否。全国に布教に歩いていた学会は当局からマークされるようになった。まもなく、学会の機関誌『価値創造』は、当局から廃刊に追い込まれたのである。
そんな折り、東京・中野の学会員が近所の子供が死んだことを「罰だ」と決め付け折伏したことで、特高警察に逮捕される事件が起きる。
こういった状況を憂慮された宗門は、牧口・戸田を総本山に呼び「伊勢の神札を焼却する等の国禁に触れぬよう」忠告する。神札を一応受けることを勧めたが、拝みなさいと言い渡したわけではないことは言うまでもない。あくまで、学会員の身を案じての教導である。
宗門外護を忘れ、
僧侶に従わなかった牧口会長は獄中で死去、
学会は壊滅した
こうして、昭和17年7月、牧口ら幹部21人は次々と、治安維持法違反・不敬罪等の罪状により逮捕された。5000人といわれる会員も一斉に組織から離れ壊滅したのである。
この後、牧口は、翌年11月18日に、獄中で死去、戸田は終戦前に出獄した。
聖教新聞で伝えた当時の状況
「戦局も悲運にかたむき、官憲の思想取締りが徹底化してきた昭和18年6月初旬に総本山から、『学会会長牧日常二郎、理事長戸田城聖その他理事7名登山せよ』という御指名があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭祝下、及び堀日亭御隠尊祝下、おそろいの場に御呼出してて(場所は確か元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山搭中寂日房御住職)から、
『神札をくばって来たならば受け取って置くように、既に神札をかざっているのは無理に取らせぬこと、御寺でも一応受け取っているから学会でもそのように指導するようにせよ』
と御命令があった。
これに対して牧口先生は渡辺尊師に向いてきちっと態度をととのえ神札問題について綾々と所信を述べられた後、『未だかつて学会は御本山に御迷惑を及ぼしておらぬではありませんか』と申し上げたところが、渡辺慈海尊師がキッパリと、
『小笠原慈聞師一派が不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている。これは学会の活動が根本の原因をなしている』
とおおせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であった。
不敬罪の告訴内容というのは大略次のようなものだということであった。
一、御本尊は7字の題目の下に天照大神がしたためられている。これは仏を主として神を軽んじているから不敬である。(この不敬罪云々が神本仏釈論を戦時中通用させた大きな力になっている)
一、管長猊下の猊下という呼称が天皇陛下の陛下に通ずるから不敬である。
こんなでたらめな告訴内容を神祗絶対主義の当時の官憲の権力で正当化して各派合同を実現させる手段とした悪辣きわまるものである。
その後学会幹部は全部投獄されたのであったが、自分が警視庁に留置せられて取調べを受けた際に刑事が自分に向かって
『前に大石寺に対する訴訟が出、それ以来学会に目をつけていたんだ、今少し大きくなってからヤッテやろうと思っていたんだが、少し早いけれどもお前達をヤッタんだ』と聞かされて驚いた事実がある。
このことは小笠原慈間が知ると知らずと牧口先生を殺した原因になっているではないか。(戸田先生談議)
学会全幹部が投獄された後、昭和19年3月にこのトバッチリで弾正会会長も入獄獄死しているが水魚会関係者から毎日総本山へ『身延と合同せよ』という勧告電報が来たそうで、遂に鈴木日恭猊下は断固たる御決心から直々文部省へ出頭遊ばされ、日蓮正宗は他派と絶対に合同せぬ由の御決意を述べられ、この合同問題に止めをさされたのであった。
(聖教新聞 昭和27年6月10日付/「創価池田王国の崩壊」)
壊滅後、宗門を頼って学会再建に動いた戸田会長
(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)
現在の学会がいうように、宗門が謗法に染まったと認識していたら、戸田は宗門へ行くことはなかったのである。