創価学会の再建
一度目の謝罪
戸田城聖は、獄中から妻へ重要な言葉を手紙で伝えていた。
戸田は妻へ、
「堀米先生(御尊師)をそしった罪であり懺悔している」
と堀米御尊師へ伝えてくださいと言っていたのである。
これは、獄中から、妻へ託した願いであるが、再び戸田は出獄2日後に堀米御尊師を訪ね謝罪をし、宗門外護を約束した。
それから、日蓮正宗の信徒として学会再建に動き出すのである。
池田創価学会では、牧口・戸田らの入獄は法難と意義付けるのだが、これはまったくの捏造で、当の本人は僧侶誹謗の罪と認識していたのである。
宗門を頼って学会再建
昭和20年7月3日、豊玉刑務所から出獄した戸田城聖は、壊滅した創価教育学会を本来の信仰の団体として再建を目指す。
戸田は、これまで数多くの事業を営んできたのだが、2年に及ぶ獄中生活の中で、ことごとく頓挫しており、信仰を続けるにも、まずは、事業の再建を考え手を打ち始めた。ちなみに、この時、17の会社合わせて、2百数十万円(現在の3億円)の負債を計上していたという。
そして出獄の2日後、中野・歓喜寮(現在の妙倫寺)を訪ねた。
なぜなら、戸田は昭和24年の総会で、
「日蓮大聖人様から六百余年、法燈連綿と正しく続いた宗教が、日蓮正宗である。」 (「戸田城聖先生講演集上」)
と指導した通り、日蓮正宗が謗法化したという認識は一切なかったからである。
人間革命では、その時のことをこう綴っている。
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それは、彼の出獄の日の翌々日のことであった。
昭和二十年七月五日― 彼はこの日、暑い日中は家にいたが、日も傾きかけたとき、脳裡から
離れなかった宗門の様子を知ろうと、歓喜寮の堀米尊師を訪ねた。まだ蒸し暑い、午後六時頃のことであった。閑散とした境内には人影すらなかった。蝉の声だけが、わずかに生きた世界を告げていた。
戸田は、幾枝を伴い、本堂に、やっとの思いで辿りついたのである。そのまま、御本尊の前
に端座して、うやうやしく唱題した。
その声を聞きつけたか、庫裡の方から静かな跫音が、本堂に近づいて来た。
「やっぱり、戸田さんでしたな」
落ち着いた声である。住職の堀米尊師が浴衣姿で現われた。
(中略)
「この戸田の生きている限り、断じて御本山を安泰にお謨り申し上げます。御心配下さいます
な。ただ、出獄後、まだ事業の見通しも得ませんので、暫くの猶予をお願いいたします」
(「人間革命」第一巻)
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ニ度目の謝罪
さらに、人間革命で語られていない言葉として、
「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)
といったことを堀米御尊師に伝えたとされる。
その後、戸田会長は終世、本山を外護し続けたことはいうまでもない。
この姿勢を引き継がずして、戸田を師と仰ぐことにはならないのである。
【戸田が家族に伝えた宗門への想い⇒】
あくまで、個々の僧侶を批判しただけ。