入獄の理由 戸田理事長談
現在の創価学会は、牧口、戸田らの入獄は法難として教えているのだが、当の本人はまるで違った証言をしているので、紹介しておきましょう。でっち上げだった“法難説”
まず、入獄中の戸田は、奥さんへの手紙で、
「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておると話して下さい。『法の師をそしりし罪を懺悔しつつ、永劫の過去を現身に見る』と言っておりますと」(昭和19年9月6日)『若き日の手記・獄中記』戸田城聖著
出獄後、まもなく教育学会の幹部との会話で、その理由を述べている。
(学会幹部) ※真木とは牧口常三郎のこと
「あなたは真木先生の一番弟子であり、私も第何番目かの弟子の一人である。弟子として私は真木先生の教えを忠実にまもっていきたいし、また学会の正しい発展を願うことでは敢て人後に落ちない熱意を持っているつもりである。ところで先頃の学会の検挙のことを、あなたはいったいどういうふうに考えているんですか、どうしてあの事件があんなに拡大しあんなに永びき、その挙句に真木先生の獄死ということになったのでしょうか、これについてあなたは反省して見たことがありますか」
前々から遠田の考えているところを訊きたいと思っていたことなので、勢い健助の調子はいくらか開き直るようなところがあったに違いなく、遠田もすぐに一つの身構えをつくった。酒の席などで与太をとばす時とは自から違うやりとりである。
(遠田=戸田城聖)
「それは二通りに考えられると思いますよ。その一応は学会が発迹顕本の時になっていたのだということ、それからもう一つ二応としては真木先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように軽く扱ったということ、御書に摧尊入卑という言葉がありまして、その摧尊入卑の罰とか罪とかいう言葉はないが、つまりそれに当るのだと思う。学会の行き方としては価値論から法華経へ、法華経から御本尊へというのでなければならないと思いますね」
(我が心の遍歴 野島辰次)
だから教育学会を継承しなかった